登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3) |
登録年 | 2018年 |
原城跡は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つ。島原の乱においては、ここが一揆側の居城となったものの、最後は徹底的に破壊され、現在はほぼ何も残りません。ところで、原城跡はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは原城跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、原城跡について詳しくなること間違いなし!
原城跡とは?
島原半島の南部にある原城は、1496年に肥前国の大名・有馬氏の当主によって建造されると、16世紀末期には本丸や二の丸、三の丸など整備された近世城郭になりました。しかし、1616年には新たに島原藩主へと赴任された松倉重政によって廃城となります。
島原の乱(1637〜1638年)
松倉重政は島原城などの出費を賄うために苛政を敷くと、やがて農民たちは一揆を起こします。彼らの中にはキリシタンがおり、キリシタン大名の小西行長の家臣の子孫とされる天草四郎を総大将にして、ここで籠城をしながら激しい戦闘を繰り広げました。その際に原城に掘や土塁などを築き、空堀を本丸手前に配備することで、島のようにして備えました。
しかし、最終的にはここに立てこもった3万7000もの人々は幕府に内通していた山田右衛門作以外は、皆殺しにされました。その後は廃城となりましたが、1990年から発掘が始まり、大量の人骨や十字架やロザリオなどのキリスタンの信心具(しんしんぐ)が見つかり、石垣や城門、櫓などの遺構があったことから、堅固な城であったことが分かっています。
原城跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
原城跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
長崎と熊本の潜伏キリシタン関連遺産は、キリスト教が禁止された17〜19世紀までの2世紀に渡って、潜伏キリスタンによって密かに続けられたキリスト教の信仰が続けられ、独自の宗教的伝統の証拠を残すという点。
世界遺産マニアの結論と感想
原城は、島原の乱においてキリシタンが大きな影響を与えたと幕府側が印象付けたことで、その後の潜伏キリシタンが誕生したきっかけになったという点で評価されています。
ちなみに、天草四郎は島原の乱の時は10代半ばだったそうで、実際には彼が指揮していたわけではなく、有馬氏の部下であった有家監物が実質的な指導者であり、彼はあくまでもシンボル的存在だった様子。こういった背景もあり、長崎や熊本には「天草四郎像」が各地で築かれましたが、その容姿はあくまでもイメージであり、彼の顔や姿などについて当時の記録は一つもありません。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。