登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1),(2),(4) |
登録年 | 1985年(1998年拡張) |
イベリア半島北部に存在していたアストゥリアス王国(718〜910年)。伝説的な王ペラーヨがイスラム勢力からこの地を奪還し、建国した国だけあって、首都オビエドには8〜10世紀にかけて多くのプレ・ロマネスク様式の教会が点在。ここで確立された建築様式はやがてイベリア半島の各地に影響を与えました。
ここではオビエドとアストゥリアス王国の建造物群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、オビエドとアストゥリアス王国の建造物群について詳しくなること間違いなし!
オビエドとアストゥリアス王国の建造物群とは?
アストゥリアス州の州都であるオビエドは、8世紀にイスラム教徒に征服されるも、それまでスペインを支配していた西ゴート王国の貴族ペラーヨが奪還し、建国したというアストゥリアス王国の中心都市。ここはレコンキスタ(再征服)の最初の地となり、首都オビエドには8〜10世紀にかけて多くの教会が建造されました。
現在では、オビエド市内と郊外に残る6つの教会と関連施設が世界遺産に登録されていて、アストゥリアス王国で流行したプレロマネスク様式の一つ、アストゥリアス様式が見られます。その中でも郊外にある「サンタ・マリーア・デル・ナランコ教会」は装飾や彫刻、ファサードなどは、はるか東方のビザンツ様式がモチーフになっていて、この時代の建築を代表するもの。これらはその後、イベリア半島の建築様式の発展に大きな影響を与えています。
オビエドとアストゥリアス王国の建造物群はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
オビエドとアストゥリアス王国の建造物群が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
アストゥリアス様式は、教会であるのに大聖堂のようなレイアウトで、アラブの建築や西アジアの聖域とも関連していて、この地域独自の建築様式が見られるという点。
登録基準(ii)
アストゥリアス様式の建造物は、イベリア半島の中世建築の発展に大きな影響を与えたということ。
登録基準(iv)
オビエドの宮殿と教会は、まだイベリア半島でイスラム王朝が繁栄した時代の小さなキリスト教国家の文明を残しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
アストゥリアス王国は、イスラム勢力によってキリスト教勢力が追いやられたことで成立した国家で、いわばイベリア半島のキリスト教の最前線のような場所でした。その状況もあり、ローマ・カトリックの教会であっても、東ヨーロッパやアラブの影響も見られ、やがてレコンキスタで南下していくにつれて、ここで確立された建築様式は、イベリア半島全体に広がっていくという点で評価されています。
ちなみに、アストゥリアス王国は、やがてレオン王国、カスティーリャ王国、スペイン王国となり、現在のスペイン王室のルーツもここにあります。歴代のスペイン王国の王位継承者には「アストゥリアス公」の称号が与えられ、やがてスペイン王になるという慣習があるのです。王位継承者にこの地の名前がつけられるほどに、この地は現在のスペインのアイデンティティにもなっているんですね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。