「クレオパトラ」ことクレオパトラ7世は、世界三大美人の一人として古代ローマの権力者カエサルを魅了したとされますが、彼女と結婚し、ほぼ最期を共にしたのは部下であったマルクス・アントニウス(紀元前83年〜紀元前30年)。そのロマンスはシェイクスピアの劇曲『アントニーとクレオパトラ』で有名ですが、実際はどんな関係だったのでしょうか?
今回はカエサルとクレオパトラの関係を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、二人の関係性にについて具体的に理解できること間違いなし!
アントニウスとクレオパトラ…2人の出会いは?

「クレオパトラ」といっても、その名前を持つ人物は実はたくさんいますが、一般的に我々がイメージするのは「クレオパトラ7世(紀元前69年〜紀元前30年)」のこと。クレオパトラは、プトレマイオス朝(紀元前305年〜紀元前30年)のエジプトの王女であり、同王朝の最後のファラオ(息子と共同統治)となりました。
アントニウスは、カエサルの死後に勃発したローマの内戦を経て、ローマを3人の指導者(オクタヴィアヌスとレピドゥス)が支配する「第二回三頭政治」の一員となっていました。アントニウスは広大なローマの領土でも東方が勢力圏であり、紀元前42年のフィリッピの戦いの後、エジプトの資源や軍事支援を確保するため、敵側であったクレオパトラに会うこととなります。歴史家プルタルコスによると、美しい女神のような格好をして宴席に招待し、アントニウスを魅了したとされていますが、これが二人の邂逅となりました。
クレオパトラ7世と親密に



古代エジプトでは、ファラオの血族は高貴とされていて、あくまでも継承の関係性を深めるということから、兄弟姉妹婚が行われることがしばしばありました(ただし、名目上の結婚だったという説も)。よって、彼女も弟であるプトレマイオス13世(紀元前63年〜紀元前47年)やプトレマイオス14世(紀元前59年頃〜紀元前44年)と慣例に従い、結婚していました。
しかし、これは共同統治者としての即位でもあり、カエサルとの間には息子カエサリオン(小カエサル)がいたものの、結婚はしていませんでした。アントニウスは紀元前36年にパルティア(現在のイランを中心とした王朝)へと侵攻するために、エジプトを欲していてクレオパトラとは親密になっていき、いよいよ正妻のオクタヴィア(カエサルの養子のオクタヴィアヌスの姉)と離縁し、結婚に至ります。そして、紀元前34年にはアルメニアとの戦争に勝利し、彼女や息子たちに領土を分断してしまいます。
二人の仲は深まるものの…悲劇へ



戦争後、アントニウスはローマには帰還せず、当時のプトレマイオス朝の首都であったアレキサンドリアにて凱旋。それもあり、アントニウスとクレオパトラの関係は、ローマ内で大きな波紋を呼びました。特に姉と一方的に離縁し、クレオパトラに傾倒したことは、ローマ西方に勢力を持ち、ローマ統一への野心を持つオクタヴィアヌスとの対立を刺激することに。
紀元前31年、オクタヴィアヌスはアントニウスの勢力であったギリシャに侵攻し、アクティウムの海戦が起こります。この戦いでアントニウスとクレオパトラの連合軍は敗北し、2人はエジプトへ逃れました。翌年、ローマ軍がエジプトに侵攻すると、アントニウスは敗北の絶望から自害。クレオパトラもその後、コブラに自らを噛ませて自殺したとされています。
世界遺産マニアの結論と感想
クレオパトラはエジプトの独立を守るため、ローマの有力者であるアントニウスとの関係を利用したとも見られ、一方、アントニウスもクレオパトラの財力や軍事力を利用し、自らの野望を果たそうとしたことから、2人の関係は単純に恋愛だけでなく、政治的な結びつきもあります。
しかし、愛人で終わったカエサルとは異なり、アントニウスとクレオパトラは結婚をして、3人の子宝に恵まれたことから、そこには政治を超えた深い愛があったとも考えられませんか?この悲劇的な愛の物語は、後にウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』などでも描かれ、このロマンスは文学や芸術に大きな影響を与えています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。