登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(3),(4),(6) |
登録年 | 1998年 |
東大寺は「古都奈良の文化」の構成資産の一つ。奈良の大仏のある東大寺は街のシンボル的存在ですが、どんな理由で東大寺は世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは東大寺がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、東大寺について詳しくなること間違いなし!
東大寺とは?その歴史をわかりやすく解説
東大寺の宗派は?場所はどこにある?
「奈良の大仏」があることで、あまりにも有名な寺院。正式には金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)で、本尊はもちろん、奈良の大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ)。東大寺は若草山の麓に位置していて、奈良の大仏がある金堂を中心に多くの仏堂や史跡が点在しています。その敷地面積は6万9000平方mにも及び、なんと東京ドームの約14.5個分。
東大寺は「華厳宗(けごんしゅう)」と呼ばれる大乗仏教の宗派の一つで、日本には736年に中国から伝えられたとされ、奈良時代から続いています。
東大寺が建造されたのはいつ?
もともとは8世紀前半には若草山の麓に寺院が存在したことが分かっていて、東大寺の記録によると、金鐘寺と呼ばれる寺院が東大寺の紀元とされます。747年に聖武天皇(701〜756年)により国家鎮護のために大仏造立が行われました。「東大寺」という寺号が使用されたのは、最も早い資料で747年であり、現在の大仏(盧舎那仏像)の開眼供養(魂入れの儀式)が行われたのが752年とされます。
1181年に平家による南都焼討が行われ、大仏殿を含めて大部分が破壊されてしまいます。その後、皇族や当時の征夷大将軍だった源頼朝の援助により、再建されました。しかし、戦国時代の1567年に市街地戦が行われ、またもや焼失。その後、再建は進まなかったのですが、江戸時代も中期ともなった1691年にようやく完成。現存する大仏は3代目で、1692年に開眼供養されたもの。その後は修理されつつも、持されています。
東大寺を建造したのは誰?大仏は聖武天皇の命令で築かれた?
東大寺の開山(かいさん、寺院を開くこと)は、華厳宗の僧・良弁(689〜774年)。彼は修行に励んでいたのですが、聖武天皇から現在の東大寺にあった土地が与えられ、その寺院を「金鐘寺」と名付けられました。やがて東大寺と改名されると、彼が東大寺の初代別当(べっとう)に任命。
一方、東大寺を建造した理由は資料によっても異なっているため、詳細は不明ではありますが、少なくとも聖武天皇が743年に大仏造立の詔(みことのり)を発し、745年に都が平城京に戻ると、大仏造立は現在の東大寺の地で行われたことから、開基したのは聖武天皇となっています。
東大寺金堂(大仏殿、国宝)の大きさは?
東大寺の伽藍の中心に位置していて、最大の建造物でもあります。奈良の大仏に合わせて、金堂(大仏殿)が完成したのが758年。現在の大仏殿は1709年に完成した3代目で、奥行50.5mと高さ約46.8mは創建時とほぼ変わりませんが、間口は当時に比べて3分の2に縮小されています。初代とは異なり、大仏を拝顔できるような観相窓や、窓の上の唐破風など、当時の建築様式によって加えられたものがあるのが特徴。
奈良の大仏(国宝)の大きさは?正式名称は「東大寺盧舎那仏像」
奈良の大仏の正式名は「東大寺盧舎那仏像(とうだいじるしゃなぶつぞう)」となっていて、その高さは14.7m。聖武天皇が743年に大仏造立の詔を発し、752年に開眼供養会が実施されました。1180年と1567年には消失してしまい、現在の大仏は江戸時代に再建された3代目。1692年に開眼供養され、1709年には大仏殿も再建されました。とはいえ、大仏の台座には奈良時代当初の部分が少しだけ残っているのが特徴です。
南大門(国宝)と金剛力士像 (仁王像、国宝)
東大寺の正門にあたる南大門は、平安時代に倒壊した後、鎌倉時代の1199年に再建されたもの。大陸から伝えられた建築様式・大仏様を採用していて、天井を作らずに構造材で装飾にしているのが特徴。
門の左右には金堂力士像が置かれていて、門に向かって右側が吽形(うんぎょう)、左側が阿形(あぎょう)となっているものの、一般的な仁王像の配置とは逆になっています。これらは大仏師の運慶(うんけい)が指揮し、弟子や当時の仏師たちによって1203年に69日で作られたとされていますが、そのあたりの役割分担はまだはっきりと分かっていません。
正倉院(国宝)はどんなお宝が眠っていた?
大仏殿の北西に位置する校倉(あぜくら)造りの正倉院は、756年に光明皇太后によって聖武天皇の遺愛の品と薬物を奉献し、近年まで当時の美術工芸品を収蔵していました。よって現在も宮内庁管轄の施設となっています。
校倉造りは湿度の高い時は外部から湿気が入らず、乾燥している時は木材が縮み、風を通すので一定の温度が保てる……という説が一般的ですが、実際に工芸品が保存状態が良かった理由としては、多重の箱に入っていたために湿度から守られたと考えられています。
東大寺二月堂(国宝)はお水取りが行われる場所
2月堂は大仏殿から東へ、坂道を上がった丘陵地帯にある仏堂。8世紀には既に存在していたとされていて、当時の瓦などが発掘されています。初代の二月堂は1667年に焼失してしまったために、現在の建造物は1669年に徳川家綱(1641〜1680年)の援助によって再建されたもの。京都の清水寺のように、建物の前半部がせり出すような「懸造(かけつくり)」となっているのが特徴。仏堂の内陣には、秘仏(ひぶつ)本尊の十一面観音を安置していて、外陣で囲まれています。
二月堂は、旧暦の2月に行われる「修二会(しゅうじかい)」いう行事を行うために増築されてきたもの。現在では3月1日から14日まで行われ、非常に複雑ですが、人が日常に犯しているさまざまな過ちを十一面観世音菩薩の前で懺悔し、人々の幸福を願うという行事でもあります。ここは毎年3月12日の深夜に「お水取り(おみずとり)」という行事が行われ、若狭井(わかさい)という井戸から観音にお供えする「お香水(おこうずい)」を組み上げる儀式でも有名。
法華堂(東大寺三月堂、国宝)
2月堂の南に位置する仏堂で、創建は740年から748年と推定され、東大寺に現存する数少ない奈良時代の建築物。北側の寄棟造の部分を正堂(しょうどう)と呼び、南側の入母屋造部分は礼堂(らいどう)と呼ばれます。ここには本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像が置かれていて、9体の乾漆像(かんしつぞう、漆工の技法で築かれたもの)や塑像(そぞう)などの仏像が並んでいましたが、これらは東大寺ミュージアムに現在展示されています。
戒壇堂と塑造四天王立像(国宝)
戒壇院(かいだんいん)は大仏殿の西側にあり、ここは多くの僧が戒律を授けるための施設として755年に中国から訪れた鑑真(688〜763年)を招いて創建されました。現在の建造物は1733年に再建されたもの。内部には多宝如来像と釈迦如来像を中心に祀られ、周囲を塑像四天王像が守るように置かれていて、これは奈良時代の塑像でも最高傑作の一つとされています。
東大寺はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
東大寺が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
古都奈良の文化財は、中国や朝鮮半島との文化的な繋がりが見られ、深い影響を与えられつつ、日本の建築と芸術が当時としては高い水準に達していたということを示すという点。
登録基準(iii)
現在残る建築物や遺構からは平城京が首都であった時代に日本独自の文化が開花したということを証明しているということ。
登録基準(iv)
平城京跡と奈良に残る建造物は、アジアの最初期における国家の首都の都市計画と建造物の優れた例であるという点。
登録基準(vi)
奈良の仏教寺院と神社は、山や森を神格化するという日本独自の神道思想などが見られ、これは今でも日本人精神に残っていて、宗教的な文化を継承し続けているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
東大寺は、中国や朝鮮半島から入ってきた仏教の影響を受けて作られたものではありますが、東大寺の建築様式は各時代における日本独自の建築様式も見られ、芸術価値が高いという点で評価されています。
ちなみに、江戸時代に再建された奈良の大仏ですが、当時は京都の方広寺には3代目の大仏があり、これは高さ約19mもあったために、当時の日本では2番目の高さでしかなかったのですが、1798年に落雷によって燃えてしまったために、繰り上げで日本一の高さとなったというエピソードも。ちなみに現在の日本では高さ120mの牛久大仏のように、各地で大仏の建設ラッシュとなっていて、本家の奈良の大仏の高さはTOP10どころか圏外です…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。