登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(6) |
登録年 | 1981年 |
フォンテーヌブロー宮殿は、イル=ド=フランスの広大な森の中にあるフォンテーヌブローにある宮殿。この地は12世紀からフランスの王たちによって狩猟用の小屋がありました。16世紀になると、フランソワ1世によって豪華絢爛な宮殿が建設。広大な庭園に囲まれた宮殿は、ルネサンス様式とフランスの伝統様式が取り入れられたもの。
ここでは、フォンテーヌブローの宮殿と庭園がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フォンテーヌブローの宮殿と庭園について詳しくなること間違いなし!
フォンテーヌブローの宮殿と庭園とは?
宮殿の内部と歴史
パリから南西に約70km。フォンテーヌブローの広大な森には、12世紀からこの地に狩猟用の小屋があり、歴代の王のお気に入りの場所でもありました。宮殿の建設はフランソワ1世(1494〜1547年)によって1528年に始まり、19世紀まで増改築が行われてきました。宮殿は不規則な構造をしており、約1500の部屋も持つ、フランスでも最大級の宮殿となっています。
現在の宮殿はフランソワ1世によって建造された時代のものがベースとなっており、これは1528年から1540年の間に建設されたもの。フランソワ1世はルネサンス君主で、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いたりと、特にイタリアの芸術家を愛したことで知られます。
ロッソ・フィオレンティーノはフィレンツェ出身の画家で宮廷画家として活躍しました。壁にフレスコ画でギリシャやローマの神話を用いてフランソワ1世を称賛するようなテーマで描き、これは「フランソワ1世の回廊」と呼ばれ、今でも残っています。彼とともに、宮殿の装飾を任されたフランチェスコ・プリマティッチオは、「舞踏の間」などを手掛けました。彼らは「フォンテーヌブロー派」と呼ばれ、ここはフランス・ルネサンスの中心地となったのです。
フランソワ1世の息子であるアンリ2世(1519〜1559年)やブルボン朝の開祖・アンリ4世(1553〜1610年)の時代に、宮殿の改築が行われ、中庭やギャラリーなどが追加されました。庭園も何度も増築されていきましたが、アンリ4世の時代に宮殿の東側に1200mもの長さの運河「グラン・カナル」を設置。宮殿が拡大され、装飾を増えていくことによって、フランスの芸術が発展していく場となっていったのです。
ナポレオンの宮殿として利用されたことも
その後もブルボン朝の王たちはこの宮殿で生まれ、愛され続けました。しかし、フランス革命によって荒廃してしまいます。やがて皇帝となったナポレオンの居城になり、大幅に改修。戴冠式もここで行われたほど、ナポレオンに愛された宮殿となりました。
結局、ナポレオンは1814年にここから去るのですが、現在見られる宮殿はナポレオン時代の姿のものです。「別れの中庭」はナポレオンが近衛兵に分かれを告げた場所としてあまりにも有名。
フォンテーヌブローの宮殿と庭園はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
フォンテーヌブローの宮殿と庭園が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
フォンテーヌブロー宮殿の建造や改修により、イタリアから芸術家が多く訪れ、フランスのルネサンス美術が発展したということ。
登録基準(vi)
フランス王室によって使用された宮殿は、ルイ14世のナントの勅令の廃止やナポレオンの戴冠式など、フランス史における重大な出来事が行われた地であったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
豪華絢爛な宮殿はそれ自体が世界遺産級ですが、評価されているのは歴史と芸術の面。この宮殿を建造したフランソワ1世はルネサンス君主として、当時の文化の最先端であったイタリアから芸術家たちを呼び、宮殿画家として多くの作品を作らせました。それによって、フランスにルネサンスが持ち込まれ、文化が発展していったのです。そして、4世紀もの間、王宮として使用されていたので世界史に残るような重大な出来事もここで行われたというのも評価のポイント。
ちなみに、フランソワ1世は数多くの芸術家をフランスに呼びましたが、最も敬愛していたのがレオナルド・ダ・ヴィンチで、死後もひたすら称賛するほど。彼の芸術に対する愛が、この宮殿を作り出したといったといったも過言ではないですね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。