登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(4) |
登録年 | 1993年 |
インドの首都デリーにあるフマーユーン廟は、ムガル帝国の2代皇帝フマユーンのために1570年に建造された墓廟。フマーユーンはペルシャ(現在のイラン)に亡命していたこともあり、建築物はペルシアとインドの融合したもので、庭園はペルシャ式の四分庭園(チャハル・バーグ)も見られます。これはインドにおける墓廟建築の基礎となり、アーグラのタージ・マハルに多大な影響を与えたもの。
ここではデリーのフマーユーン廟がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フマーユーン廟について詳しくなること間違いなし!
デリーのフマーユーン廟とは?
フマーユーン廟は、ムガル帝国の建築物の中でも最初期の墓廟であり、ペルシャ出身の王妃ハミーダ・バーヌー・ベーグムによって1570年に完成。ペルシア出身の建築家ミラーク・ミルザー・ギヤースの指揮のもと、9年の歳月をかけて建造されたもの。これはムガル帝国における墓廟建築の基盤となり、17世紀に建造されるアーグラのタージ・マハルへと繋がる建築物でもあります。
フマーユーン時代のムガル帝国は、北インド全体を支配したものの、各地で反乱が発生し、一時期ペルシャへ亡命していました。その時に王妃と出会い、当時のペルシャを支配していたサファヴィー朝の支援を受け、インド北部を取り戻したという経緯があり、墓廟はインドとペルシャの建築様式の融合が見られます。
墓廟は、八角形の基盤を持ち、建物の側面にすべて尖塔型のアーチが多用されていて、二重のドームがかけられていますが、これらはペルシャ式の建築様式。一方、赤砂岩のファサードは白い大理石が使用されたインド伝統の技法が見られ、ドームの周りにあるチャトリ(小塔)もインド独特のもの。高さ42.5mの大理石のドームは二重構造になっていて、外側の屋根と内側の天井を別にしています。
中央にある八角形の部屋はフマユーンの霊廟で、白い石棺が置かれていますが、これは模棺(セノターフ)と呼ばれるもので、玄室は地下に存在。他にも王妃のベーグム、王子、宮廷人など150もの死者が埋葬されているとされています。
墓廟の四方に広がる広大な正方形の庭園は、ペルシャ式の四分庭園(チャハル・バーグ)で、経典である『コーラン』における楽園を表したもの。ここは水路を十字に区切られていて、庭園内には水路や小道が格子状に配されています。
デリーのフマーユーン廟はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
フマーユーン廟が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
フマーユーン廟は、その大きさや設計、広大な四分庭園など革新的な建築物であり、これがムガル帝国建築の基盤となってやがてタージ・マハルの建設に繋がっていったということ。
登録基準(iv)
フマーユーン廟は庭園を併設した独特の墓廟で、ムガル帝国のインド支配のシンボルとなり、インドでも最初期のイスラム教の墓廟建築として重要なものあるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
フマーユーン廟は、イスラム王朝であったムガル帝国によって16世紀に築かれ、ペルシャの建築や庭園様式を入れた支配の象徴であり、この巨大な墓廟の完成によって、やがてムガル帝国の最大傑作であるタージ・マハルへと繋がっていったという点で評価されています。
ちなみに、ムガル帝国最後の皇帝ハードゥル・シャー2世は、当時の英国に対して反乱(シパーヒーの反乱)を起こすも、最終的には捉えられ、ミャンマーに追放されてしまいます。皮肉にも彼が英国軍に捕まったのは、フマーユーン廟でした。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。