登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2),(4) |
登録年 | 2023年 |
カンボジア北部にあるコー・ケー遺跡は、かつて東南アジアの広域を支配したクメール王朝の一時的な首都であった場所。首都として機能したのは短い間でしたが、ここは水利技術が優れていた都市で、階段状のピラミッドのような寺院があったことでも知られています。
ここではコー・ケー:古代リンガプラもしくはチョック・ガルギャーの考古遺跡が、なぜ世界遺産なのか?世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、コー・ケー遺跡について詳しくなること間違いなし!
コー・ケー:古代リンガプラもしくはチョック・ガルギャーの考古遺跡とは?
アンコール・ワットから北東に約102km。ここはダンレック山脈とクーレン山脈に囲まれた丘陵地帯で、アンコール遺跡を建造したクメール王朝(802〜1431年)の首都があった場所。当時の名称は「チョック・ガルギャー」で、サンスクリット語で「リンガプラ」と呼ばれていました。
コー・ケーは、王であったジャヤーヴァルマン4世(在位928〜941年)によって、アンコール遺跡の近くにあったヤショーダラプラから遷都し、928〜944年の間だけ首都となりました。彼はヒンドゥー教を厚く庇護した君主であり、帝国も平和だったということもあり、ここは1万のもの人口を抱える大都市だったということが分かっています。帝国内の社会や経済が発展すると同時に芸術と建築技術も発展し、それらは遺跡に残された装飾や彫刻から分かるもの。
都市は約1200m×約560mの幅を持つバライと呼ばれる巨大な人口湖を中心に存在していたとされます。コー・ケーは、川を堰き止めて、運河を通して田畑へとつなげるという水利技術も見られるという点で優れていました。
バライの北西にあるプラサット・プランは最も重要な宗教施設だったと考えられています。ここは「プラン(寺院)」と呼ばれる7層のピラミッド型の寺院が置かれ、現在の高さは36mではありますが、かつてはこの上にリンガと呼ばれる、ヒンドゥー教の主神の一人・シヴァを表す円柱形の像が立っていました。他のクメール遺跡だけでなく、東南アジアではピラミッド型の寺院がほとんど見られないということもあり、非常に貴重なもの。
コー・ケー:古代リンガプラもしくはチョック・ガルギャーの考古遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
コー・ケーが評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
コ・ケーの寺院や芸術作品、碑文、都市計画はインド、特にヒンドゥーの宗教概念や建築・芸術様式がどのように影響を受けて、洗練されていくかといった過程を示す傑出した例であります。そして、コー・ケーは独自の概念を生み出し、東南アジアの都市計画や芸術における指標となったクメール文化に発展した足跡を残すという点。
登録基準(iv)
コー・ケーは、ヒンドゥー教の宗教的特徴を持ち、社会制度や宗教、芸術という点でインドの影響を受け、現地の生活様式や思考などに同化していき、独自のクメール文化が誕生したということを示もの。プラサット・プランの階段状の寺院を含め、都市設計や建築物を含めて東南アジアにおける巨大なインフラを持つ都市の誕生が見られるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
コー・ケーは、クメール王朝でも初期に建造された都市であり、ここは優れた水利技術などインフラが充実していて、インドから渡来したヒンドゥー教の文化も交わり、どのように独自のクメール文化となっていったかということを示すという点で評価されています。
ところで、ジャヤーヴァルマン4世が遷都した理由はよく分かっていません。彼は先々代の王・ヤショーヴァルマン1世の異母妹であり、叔母にあたる女性と結婚したため、王族の血を引いてはいるものの、実は簒奪者であったという説も。そして、彼の息子であるハルシャヴァルマン2世が王位を次ぐものの、戦乱が発生したと考えられ、3年でヤショーダラプラへと再び遷都している事実を踏まえると、政治的にはかなり揺れた時期であったのでしょうね…。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。