グアテマラの世界遺産「タカリク・アバフ国立考古公園」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1),(2),(3)
登録年2023年

グアテマラ西部の高地に残るタカリク・アバフは、紀元前800年ころから存在する先古典期の祭祀センターだった場所。ここには無数の彫刻と建築物跡が残り、メキシコのオルメカ文明から影響を受け、文字や暦などマヤ文明初期の文化が発展していったという文明間の架け橋的存在であったという点で評価されています。

ここではタカリク・アバフ国立考古公園がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、タカリク・アバフ国立考古公園について詳しくなること間違いなし!

目次

タカリク・アバフ国立考古公園とは?

画像素材:shutterstock

グアテマラ南西部のレタルウレウ州はメキシコの国境近くにあり、太平洋岸の標高600m前後の傾斜地には、先古典期中期(紀元前800〜紀元前400年)から後期(紀元前400年〜250年)に繁栄した祭祀センター・タカリク・アバフがありました。この地はメキシコ東側のテワンテペク地峡からエルサルバドル方面まで抜ける交易路で、ここは商人たちが集まることから、88の建築物と364もの彫刻が施された石碑が並ぶ、大規模な集落でした。

最古の遺跡は紀元前800年頃に遡り、アメリカ大陸最初期の文明であるオルメカ文明(紀元前1250年頃〜紀元前後、メキシコのベラクルス州南部からタバスコ州北部を中心に繁栄した文明)の影響を受け、石彫にもその影響が多く見られます。紀元前400年ころになると、マヤ文明の様式も見られるようになり、石碑などには統治者を表した彫刻が見られ、初期マヤ文字も刻まれていました。そして、この地方独自のイサパ文化が見られ、「マヤ歴」と呼ばれる長期歴の石碑も存在します。しかし、初期古典期(250〜550年)には彫刻は見られなくなり、その後は現在この地に住むキチェ族によって占領されたものの、交易路の変更もあり、16世紀には放棄されたと考えられています。

タカリク・アバフ国立考古公園はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

画像素材:shutterstock

タカリク・アバフ国立考古公園が評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
タカリク・アバフは、オルメカ文明後期にその作品が多く見られ、オルメカ文明の崩壊後に新しい概念や生活様式、世界観を生み出したという社会の継続性と繁栄が見られ、長期間に渡って製作された多種多様な彫刻作品が残り、それらの保存状態が良好であるという点。

登録基準(ii)
タカリク・アバフは、現在のメキシコに存在したオルメカ文明と太平洋岸、現在のグアテマラの高地の間に交易ルートがあり、先古典期中期にオルメカ文明の人々と交流することで、初期マヤ文明の発展における重要な存在となり、文化の発展を示す証拠になっています。やがて後期になると、マヤ様式の彫刻が多く建造され、マヤ文字や暦、彫刻技術が発展していったということ。

登録基準(iii)
タカリク・アバフは当初、オルメカ文明の文化を共有し、後にマヤ文化の発展が見られ、そして、マヤの文字と暦の存在が記録された最初期の都市の一つでもあります。この遺跡に残る建造物や彫刻はオルメカ文明からマヤ文明への架け橋となったということを示すものであるという点。

世界遺産マニアの結論と感想

タカリク・アバフは、メソアメリカ最初期の文明であるオルメカ文明の影響を受けた彫刻が多く残り、そして、マヤ文明の最初期の彫刻や文字、暦などが存在することから文明間の継承が発生し、独自に発展していったという証拠が見られるという点で評価されています。

ちなみに、アメリカの考古学者がこの遺跡を「piedra parada」というスペイン語で呼んだところ、現在もこの地に暮らすキチェ族のキチェー語でそのまま「abaj(石)takalik(立ち並ぶ)」と訳したので、アバフ・タカリクと最初は呼ばれました。しかし、キチェー語の語順としては「タカリク・アバフ(Takalik Abaj)」が正しいために、後に政府はタカリク・アハフを正式名称にしています。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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