登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4) |
登録年 | 2004年 |
首都ウランバートルから南西へ約360km。オルホン川の両岸には牧草地帯が広がり、この地は6世紀頃の考古学遺跡や、12〜14世紀のモンゴル帝国の首都であったカラコラムなど、草原とともに生きた遊牧民族の歴史が繰り広げてきた場所です。
ここでは、オルホン渓谷の文化的景観がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、オルホン渓谷について詳しくなること間違いなし!
オルホン渓谷の文化的景観とは?
モンゴルの中央部にあるオルホン渓谷は、オルホン川沿いに12万ヘクタールの土地が広がっています。ここは、先史時代から草原とともに文化が発展したという遊牧民の故郷とも言える場所。そして、広大な遊牧民国家が築かれた後も、ここは彼らの本拠地として文化や宗教の中心地でした。
ここで人間が活動を始めたのは、約6万年以上前。その後、トルコ系とされる突厥やウイグル族などが住み、最後はモンゴル人が定住するようになりました。そして、13世紀にモンゴル帝国が築かれると広大な帝国の首都としてカラコルムが造られました。
「文化的景観」としては、6〜7世紀の突厥の遺跡、8〜9世紀にウイグル族のハル・バルガス遺跡、13世紀に建造されたカラコルムの跡地など、数多くの遺跡が登録されています。今でもこの地に遊牧民は伝統的な暮らしを続け、現存するエルデネ・ゾー僧院など、信仰の中心地であるというのも評価。
登録されている主な構成資産
オルホン碑文
19世紀にオルホン渓谷のホショー・ツァイダムで発見されたもの。突厥文字で書かれた碑文で、内容はおもに突厥の可汗(君主)であったビルゲ・カガンを称える内容になっています。これらはビルゲ・カガンの甥によって書かれたもので、突厥語を解読するための貴重な資料となりました。
カラコルムの遺跡
13世紀にチンギス・カンが基地をこの地に造営すると、彼の息子であるオゴデイが宮殿を築き、ここをモンゴル帝国の首都にしました。5代目のフビライが現在の北京に首都を移転した後も、モンゴル族の拠点として使用されていましたが、徐々に荒廃していき、16世紀末にエルデネ・ゾー僧院を建設するための素材となり、宮殿は姿を消しました。
エルデネ・ゾー僧院
かつてカラコルムがあった地に建つチベット仏教の僧院。16世紀末に建立され、モンゴルで最古の寺院となり、現在でも多くの僧が住んでいます。モンゴル帝国の後継国である元ではチベット仏教が保護されたため、チベット仏教はモンゴル族に広く普及しました。
オルホン渓谷の文化的景観はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
オルホン渓谷が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
遊牧民はオルホン渓谷から大帝国を築き上げたことで、アジアとヨーロッパを結び、商業や宗教、軍事など、社会全体に影響を与えたということ。
登録基準(iii)
この地から遊牧民の文化が生まれ、今でもモンゴル人社会では重視されているという点。
登録基準(iv)
ウイグル族が築いたハル・バルガスの都市、モンゴル帝国の中心であったカラコルム、モンゴルにおけるチベット仏教の普及の舞台であったエルデネ・ゾー僧院など、この渓谷に残る遺跡や建造物は、人類の歴史においては重要な段階であったということ。
世界遺産マニアの結論と感想
文化的景観というと難しいですが、つまりは「遊牧民と草原」そのものが世界遺産だと考えましょう。
オルホン渓谷は遊牧民の文化が生まれた地であり、やがて彼らはアジアとヨーロッパをまたがる巨大な帝国を築いたことにより、東西の文化が融合していきました。そして、このオルホン渓谷に残る遺跡や建築物は、世界史においては重要な段階であることを示しています。現代になって都市に住むモンゴル人が増えても、遊牧民としてのアイデンティティを忘れずにゲルなどの遊牧民文化を大事にしているというのもポイント。
ちなみに、突厥文字はアルファベットの一種であり、東アジアにおいては漢字以外の文字としてかなり古い言語。ちなみに、平仮名は9世紀から存在が確認されていて、これも我が国が誇る文化でもあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。