登録区分 | 文化遺産(危機遺産 2012年〜) |
登録基準 | (2), (3), (4) |
登録年 | 2004年 |
マリ東部にあるガオは、かつて西アフリカ最大の国家であったソンガイ帝国(1340〜1591年)の都があった場所。ここは15〜16世紀の最盛期の王であったアスキア・ムハンマド1世によって築かれた、ピラミッド型のユニークな墳墓があることで知られます。
ここではアスキアの墓がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アスキアの墓について詳しくなること間違いなし!
アスキアの墓とは?
7世紀にニジェール川沿いに建造されたガオは、世界遺産のトンブクトゥやジェンネとを並ぶサハラ交易で繁栄した都市で、ソンガイ帝国の首都でもありました。ソンガイ帝国は、塩と金などを中心としたサハラ交易で栄え、15〜16世紀に最盛期を迎えた黒人の王国。ここには1495年に最盛期の王であるアスキア・ムハンマド1世によってピラミッド型の墳墓が築かれました。
墳墓は泥を固めてピラミッド状にするというサハラ砂漠の建築様式で、そこにイスラム教の要素が入り込んだ独特の建築様式。毎年冬になると周囲を石膏を張り替えているので保存状態も良好です。アスキア・ムハンマド1世は熱心なイスラム教徒であり、この地域のイスラム教の布教に尽力していたために、墳墓の周辺には当時建造された平屋根のモスクや共同墓地、集会所なども残っています。
危機遺産(危機にさらされている遺産)
2012年に反政府勢力のアザワド解放民族運動が一方的な独立宣言を行い、ガオが暫定の首都とされたため、現地のイスラム軍事組織アンサール・アッ=ディーンなどど対立。そして、フランスの軍事介入もあり、空爆も受けたことから現在でも危機にさらされている状態でもあります。
アスキアの墓はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
アスキアの墓が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
アスキアの墓は、北アフリカの伝統建築物にイスラム的要素を加え、サハラ砂漠の独特な建築様式が生み出されているという点。
登録基準(iii)
アスキアの墓は、かつて西アフリカのサハラ砂漠を支配し、交易で繁栄したソンガイ帝国の重要な建築物であるということ。
登録基準(iv)
アスキアの墓は、西アフリカのサハラ砂漠の伝統建築が何世紀にも渡って維持しながら発展したという技法が見られるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
ガオに残るピラミッド状の墳墓は、ソンガイ帝国最盛期のアスキア・ムハンマド1世の霊廟として建造されたもので、これは現地の伝統建築とイスラム建築が融合した、サハラ砂漠独自の建築技法が見られ、それが何世紀にも渡って維持され発展してきたという点で評価されています。
ちなみに、アスキアの墓の「アスキア」はもちろん、アスキア・ムハンマド1世を示すのですが、これは軍隊の階級を示す称号でもあります。実際に彼は軍人でもあり、前王のスンニ・バルを反乱で追放し、自ら王になりました。荒々しい人物かと思いきや、彼が熱心に布教活動をしたイスラム教によって、学校が多く建設されることから、当時はかなり慕われた王様だった様子。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。