アンケセナーメン(紀元前1348年頃〜紀元前1322年以降)は、ツタンカーメンの正妃であり、歴史的大発見であるツタンカーメンの王墓にあった副葬品によく描かれている人物。二人の仲は良好だったとされますが、アンケセナーメンはどういった人物だったのでしょうか?
今回はアンケセナーメンがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アンケセナーメンについて具体的に理解できること間違いなし!
アンケセナーメンとはどんな人物?
ツタンカーメンの妻として有名

アンケセナーメンは、アメンホテプ4世(在位:紀元前1353年?〜紀元前1336年?)とネフェルティティ(紀元前1370年〜紀元前1330年)の間に生まれた王女。もともとは「アンケセンパーテン」という名前でしたが、父の死後は、異母兄弟であるツタンカーメンと結婚しました。その際に、当時信仰していたアテン神からアメン神へと変更したために名前も「アンケセナーメン」と変更しています。
ツタンカーメンの墓にあった副葬品には二人の仲睦まじい姿が描かれているため、夫婦仲は良かったと推測されています。彼の墓からは2体の胎児のミイラが発見されていて、DNA鑑定によると彼らの娘であることは間違いはなく、資料にはないものの、どうやら成人できずに亡くなってしまった様子。しかし、ツタンカーメンは18歳頃に亡くなり、当時の彼女は21歳頃とされ、早くも未亡人となってしまいました。
その死因は?



その後のアンケセナーメンの行方は分かっていませんが、当時のアメン神官であり、親戚であったアイ(紀元前1323年〜紀元年1319年もしくは紀元前1327年〜紀元円1323年)がファラオになりました。1931年に発見されたガラスの指輪にはアイとアンケセナーメンのカルトゥーシュが刻まれていて、その後、彼女はアイと再婚したとも考えられています。
アンケセナーメンの墓はまだ見つかっていませんが、王家の谷のKV21で発見されたミイラがアンケセナーメンという説があるものの、ミイラの損傷が酷いため、はっきりとしたことは分からず、死因も結論が出てきません。しかし、彼女の死によって、第17王朝から続く第18王朝の家系は途絶えてしまいました。
アンケセナーメンにまつわる世界遺産はこちら!
ルクソール神殿



かつてはテーベと呼ばれた、ルクソール市内の中心に位置する神殿で、ここは北へ約3kmの位置にあるカルナック神殿の副神殿として、彼女の祖父であるアメンホテプ3世(紀元前1390年〜紀元前1352年頃)によって建造されたもの。
ツタンカーメンの時代には増築が行われていて、列柱廊が完成。そこにはツタンカーメンと並ぶアンケセナーメンの座像も築かれていて、仲睦まじい夫婦の様子が今でも見られます。
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世界遺産マニアの結論と感想
アンケセナーメンは王妃でありながら、父の死、夫の死と、20代にして波乱万丈な人生を歩んでいて、その後の人生の行方は分かっていません。ツタンカーメンの副葬品には彼とともに多くの姿が描かれていて、その数奇な運命から小説や映画のテーマにされることが多く、発見者であるカーターも墓の中に添えられていた花は彼女が墓を閉じる前に入れたのであろうと推測していました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。