エカチェリーナ2世(1729〜1796年)は、女性でありながら、ロシア帝国の黄金時代を築いた偉大な「女帝」であり、啓蒙専制君主としても有名です。エカチェリーナ2世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はエカチェリーナ2世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
エカチェリーナ2世(大帝)とはどんな人物?
ロシア生まれではないが、クーデターで皇帝に

実はエカチェリーナ2世はロシア人ではなく、北ドイツ(現在はポーランド領)のシュテッティ生まれ。本名は「ゾフィー・アウグステ・フリーデリケ」であり、プロイセン軍人の家に生まれます。ロシアの女帝エリザヴェータ1世(ピョートル大帝の娘)が後継者として甥のピョートル・フョードロヴィチ(後のピョートル3世)を指名すると、1745年に16歳でピョートルと結婚し、ロシア宮廷に迎えられました。そして、ロシア正教に改宗すると、新たな名前「エカチェリーナ・アレクセーエヴナ」となります。
夫ピョートルとは不仲で、次第に彼と疎遠になり、宮廷の政治に関心を向け、フランスの啓蒙思想を学びます。1761年にエリザヴェータ1世が死去し、夫のピョートル3世が即位。しかし、ピョートル3世は、プロイセンの戦争で得た領地を返還したりと、ロシア貴族や軍部の支持を失い、不人気だったため、1762年にエカチェリーナは軍や貴族の支援を得てクーデターを起こし、エカチェリーナ2世として即位。
啓蒙専制君主としての治世と対外戦争



彼女は啓蒙専制君主として、1767年に「法典編纂委員会」を設置し、新しい法律の制定を試みたものの、結局実現せず。しかし、拷問の廃止や学校を多数設立し、女子教育にも力を入れていきました。
対外施策としては、オーストリア、プロイセンとともにポーランドを3回にわたって分割し、ロシア領を大きく拡大(ポーランド分割)。南方ではオスマン帝国との戦争で勝利し、黒海沿岸の支配も拡大します。1783年にはクリミア半島を併合し、ロシアの南方進出を確立しました(露土戦争)。しかし、晩年はフランス革命(1789年)に強く反発し、革命思想を弾圧してしまいます。1796年にエカチェリーナは脳卒中で死去。
美人ではないのにモテモテ!その逸話とは?



多くの肖像が残っているので明らかではあるのですが、肖像画や記録によると、エカチェリーナ2世は絶世の美女ではなかったとされています。しかし、フランス語を流暢に話し、知性や気品、魅力的な話術で多くの男性を魅了しました。むしろ、容姿よりも「カリスマ」としての魅力があったようです。
一方、エカチェリーナ2世は、数多くの愛人を持ったことで有名です。公認の愛人は約10人ですが、寝室をともにした愛人を数えると数百も超えるとか…。
しかし、彼女は恋愛を単なる個人的な楽しみだけでなく、政治的な戦略の一環としても活用しています。その中でも軍人であり、政治家でもあったポチョムキン(1739〜1791)は、エカチェリーナ2世の最も信頼する愛人の一人で、2人は秘密裏に結婚していた可能性もあるほど。とはいえ、彼との関係も晩年は冷めきってしまい、彼女が亡くなると、年下の男性を愛人として迎えることが多く、孫のニコライ1世には「玉座の上の娼婦」と言われてしまっています。
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エルミタージュ美術館(冬宮殿)/ロシア



ロシア北西部・サンクトペテルブルクの中央広場でもある宮殿広場の北西に位置する美術館。ここは皇帝の冬の王宮として1754~1762年の間に建設されため「冬宮殿」と呼ばれます。ここを初めて利用したのがエカチェリーナ2世。
もともとは、エカチェリーナ2世の美術品を多く買い取ったことがコレクションとしての始まりで、1775年に彼女はわざわざ美術品の展示室を作ったほど。1918年に冬宮殿すべてがエルミタージュ美術館として統合され、ここは本館として利用されるようになりました。
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ヤロスラヴリの歴史地区/ロシア



ヤロスラヴリは、ロシア西部・ヤロスラヴリ州の州都で、ヴォルガ川とコトロスリ川の合流点に位置する商業都市。
18世紀になると、エカチェリーナ2世の命で再開発が行われ、歴史的な建造物は保護されつつも、ヴォルガ川に面した半円状に広がる都市となりました。ここは2〜3階建ての新古典主義時代の建築物が並ぶという優雅な街並みへと変貌し、19世紀まで再建が続けられました。
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オデーサ(オデッサ)歴史地区/ウクライナ



黒海に面したオデーサ州の州都。もともとはタタール人による集落があった場所に、15世紀になるとオスマン帝国によってハジベイと呼ばれる集落が建造。都市となるのは1789年にロシア帝国がこの地をロシア領として編入してから。1794年にエカチェリーナ2世によって港の建設が開始され、その後、街の名は「オデッサ」と改称されます。
ここは1世紀にかけて、多民族による多文化都市として発展し、現在の町並みはフランス人貴族のリシュリューによって、新古典主義様式の建造物が多く作られたことが起源。もともとは簡素だった町並みは、並木道や街灯などが配される優雅な都市へと変貌していきました。
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世界遺産マニアの結論と感想
エカチェリーナ2世は、ロシア人ではなかったものの、ロシア帝国を近代化し、強大な領土を築き上げたという点では偉大な人物です。その統治は専制的でありましたが、文化や教育の面ではロシア社会を大きく変えたのは事実ではあるでしょう。しかし、愛人が多くて少し困った人物ではありましたが…それは彼女の立場が弱いため、優秀な人材を囲むための政策の一点と捉えると、実は「愛」の力を利用したとも考えられるのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。