登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (4) |
登録年 | 1993年 |
姫路城の天守丸は、城のシンボル的存在。大天守と3つの小天守が並ぶ豪華な「連立式天守」は日本でもここだけ。ところで、天守丸・備前丸はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは天守丸・備前丸がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、天守丸・備前丸について詳しくなること間違いなし!
天守丸とは?大天守を含めた連立式天守
姫路城の天守は、日本に12ヶ所ある現存天守の一つ。ここは姫路城の本丸にあり、標高45.6mの姫山の上に築かれたもの。ここにはもともと1580年に羽柴秀吉によって築かれた三層の天守閣が存在していたのですが、後に姫路藩初代藩主である池田輝政(1565〜1613年)によって、解体され、現在は4つの天守の一つ、乾小天守に転用されています。
彼によって大天守との東小天守・西小天守・乾小天守の4つが築かれました。これらには天守の間を渡櫓(通路となる建築物)で結ぶという連立式天守と呼ばれるものが採用。城自体は一度も戦火に遭ったことはないのですが、防火・耐火・鉄砲への防御として優れた構造でもありました。
大天守
建物としての高さは石垣部分が14.85m、建造物としては31.5m。姫山と建造物を合わすと、合計で海抜92mにもなります。外観は五重構造となっていて、曲線を描く「唐破風(からはふ)」と、山なりのデザインの「千鳥破風(ちどりはふ)」を持つ優雅な造りとなっているのが特徴。
心注は直径95cm、高さ24.6mの木材で支えられていて、地下室を除くと1〜6階建てとなっていて、各階は上へ行けば行くほどに狭くなっています。最上階は、東西7間・南北5間という構造で、日本独自で発展した書院造りが見られ、現在は展望台として開放。
小天守・渡櫓
北東に位置する東小天守、北西に位置する乾小天守、南西に位置する西小天守の3つが並んでいて、乾小天守は秀吉時代の天守が使用されていることでも有名。大天守と3基の小天守を繋ぐ、渡櫓は二層構造の2階建てとなっていて、地下室を持つという構造となっています。
備前丸とは?
天守の南には、備前丸という本丸御殿が存在し、城主の住処であったものの、1882年の火事で消失。現在は空き地となっています。実は備前丸は山上に位置するために住みづらく、麓にある三の丸に本城と呼ばれる館があり、江戸時代中期には既に住居としての機能はなかったとされています。
姫路城の天守丸・備前丸はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
天守丸・備前丸が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
姫路城は白漆喰を使用した外観に、複雑な構造の配置や屋根の重ね方も美しく、木造建築の傑作であるということ。
登録基準(iv)
日本の城郭建築の集大成であり、その建築技術をすべて保持しているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
天守丸は白漆喰の城のシンボル的存在で、その複雑な構造は日本の城郭建築の最大傑作。備前丸はかつての本丸御殿があった場所であり、その構造も含めて評価されています。
ちなみに、備前丸跡の近くには「お菊井戸」と呼ばれる井戸がありますが、このお菊とは江戸時代の皿屋敷の怪談で有名なお菊ではありません。こちらのお菊は室町時代に姫路城主となった小寺則職(こでらのりもと)の時代に、殿の暗殺を計画した青山鉄山をスパイするために仕えたのですが、結局青山にバレて井戸に放り投げられてしまったそう。それ以降は井戸から皿を数える声が聞こえるという…。
このストーリーは江戸のお菊のものとよく似ているので、実は江戸時代の江戸で流行した皿屋敷の怪談はどうやら姫路城のものがルーツなのでは?と考える人もいるほど。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。