登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (4) |
登録年 | 1993年 |
兵庫県にある姫路城といえば、その美しさで有名ですが、姫路城が世界文化遺産に登録されているのは誰でも知っていますね。ところで、姫路城はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?これは意外と知ってそうで知らない!
ここでは、今回は姫路城がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、姫路城について詳しくなること間違なし!
世界遺産・姫路城とは?なぜ評価されたのかを簡単に解説!

兵庫県の西部の中心都市である姫路市は、古くから交通の要衝として栄えてきました。17世紀に建造された姫路城は街のシンボルであると同時に、日本の城塞建築の中でも最高傑作とされるお城です。
播磨国の守護職にあった赤松氏が14世紀に築いた城がベースになっていて、1567年に黒田孝高(官兵衛)が城代になると羽柴秀吉を譲り、1580年に城を大改修し、この際に近世城郭となりました。1600年に池田輝政が城主となると再び大改修を行い、天守閣や曲輪など、現在に繋がる基本構造が築かれます。1617年に今度は徳川家の旗本であった本多忠政が入城すると、徳川家康の孫である千姫のために、西の丸が整備されました。この時代に現在見られる姫路城の構造のほぼすべてが完成。

明治時代になると、取り壊されることはなかったものの、次第に城は荒廃していき、1934年に修理計画を立案。1956年からは「昭和の大修理」と呼ばれれる補修工事が行われ、礎石が外されて鉄筋コンクリート製の基礎構造へと変更されました。1993年に世界遺産になると、今度は「平成の大修理」が行われ、天守の漆喰を塗り替え、瓦も新調されました。
広大な敷地内には82もの建造物があり、8棟が国宝で、74棟が重要文化財という豪華な構成となっています。別名「白鷺城」ともいわれ、白漆喰で統一された外観は複雑な構造の配置や屋根の重ね方を工夫していて、世界でも例を見ないほどの美しさ。曲輪という城の区画は、螺旋状に造られており、3層の水濠など、難攻不落の縄張(設計)となっています。
姫路城はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

姫路城が評価されたのは、以下の点。
登録基準(i)
姫路城は白漆喰を使用した外観に、複雑な構造の配置や屋根の重ね方も美しく、木造建築の傑作であるということ。
登録基準(iv)
日本の城郭建築の集大成であり、その建築技術をすべて保持しているということ。
この2つ。つまり、
「白漆喰の外観を持つ姫路城は、美しさはもちろん、屋根の構造なども実用的であり、日本の城郭建築の最高傑作である」
ということですね。
姫路城の構造をご紹介
1、天守丸と備前丸

姫路城の天守閣は、日本に12ヶ所ある現存天守の一つ。現在の天守は池田輝政時代のもので、唐破風や千鳥破風を持つ大天守と3重の東小天守・西小天守・乾小天守の4つで構成されています。これらは天守の間を渡櫓(通路となる建築物)で結ぶという連立式天守と呼ばれるものが採用。
天守閣の南には、備前丸という本丸御殿がかつてあり、城主の住処であったものの、1882年の火事で消失。現在は空き地となっています。
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2、西の丸

旗本・本多忠政が築いた住居で、本丸から西の位置にあったため、「西の丸」と呼ばれます。徳川家康の孫である千姫が、忠政の嫡男・忠刻に輿入れした際に建てられた化粧櫓が現存。内部の館は現存していませんが、渡櫓(長局)と呼ばれる城壁の廊下は残っていて、ここからは鉄砲を打つために作られたスペースである狭間や石落としの仕組みなども見られます。
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世界遺産マニアの結論と感想
姫路城が唯一無二の城になった理由は、江戸時代は一国一城令が出たため、姫路城のような立派な城が作ることができたのは17世紀前半までだったという事情もあるからです。そして、長らく戦乱が続いた時代だったため、城としての機能は抜群で、さらに徳川家と親戚になった城主によって採算度外視で贅沢に作られたというのも姫路城がこれだけ立派になった背景でもあります。さまざまな事情が重なり、日本の城郭建築の最高峰がここに出来上がったのです。
しかし、あまりにも立派な城だったため、維持するのに財政を圧迫し続けたというのも姫路城。ただ幕末や太平洋戦争においても大した被害も受けずに、無事に生き延びたというのも非常に幸運でもあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。