登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 1987年 |
慕田峪長城(ぼでんよくちょうじょう)は「万里の長城」の構成資産の一つ。北京の近郊にあり、誰もがイメージする関所と長城が続くという景観が見られます。ところで、慕田峪長城はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここでは慕田峪長城(万里の長城)がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、慕田峪長城について詳しくなること間違いなし!
慕田峪長城(万里の長城)とは?
北京から北へ約90kmの位置にある長城。ここは万里の長城でも北京からアクセスが良く、ロープウェイも置かれていることから人気が高い観光地となっています。ここはもともと南北朝時代の北斉(550〜577年)のものではありますが、15世紀の明の時代になると、長城跡に新たなる建築物「慕田峪関」が建設されました。
結果的に首都・北京の近くにあったことから、明代末まで北方の遊牧民の侵攻に備え、何度も重複されました。よって、万里の長城でも保存状態は良好。誰もが思いつくような「万里の長城」のイメージの通り、関所と城壁が続く景観が続いています。
慕田峪長城(万里の長城)はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
慕田峪長城が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
宇宙からも確認できるほどに広大な万里の長城は、自然の地形を利用した偉大な建築物であるという点。
登録基準(ii)
中国北方で万里の長城を建設することによって、中国人の居住地が拡大していったということ。
登録基準(iii)
保存状態の良い嘉峪関や明の時代の城壁部分などは、万里の長城が長年に渡って建造され続けていたということを証明しているという点。
登録基準(iv)
万里の長城は長年に渡って発展した防衛設備が見られる軍事建築のユニークな例であるということ。
登録基準(vi)
中国の詩や文学のテーマになるほど、万里の長城は異民族から中国を防衛するという重要なシンボルであったという点。
世界遺産マニアの結論と感想
慕田峪長城は、軍事建築として優れているということだけでなく、北方との異民族との戦いの足跡が見られ、中国においては文化的なシンボルにもなっているという点で評価されています。
ちなみに、北斉の初代皇帝である文宣帝(ぶんせいてい)・高洋は、北方の異民族・鮮卑族または高句麗人がルーツとされていて、長城も彼らに対する恐怖から作られたものでしょう。さらには、南北朝時代の華北はまだ北方の異民族によって支配されている時代が長かったため、逆に漢民族たちが長江以南を開発していったという経緯があります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。