中国を横断する万里の長城と、ユーラシア大陸を横断するシルクロード、この2つの遺産は世界史的には重要な史跡ではありますが、その違いはどこにあるでしょうか?
今回は万里の長城とシルクロードの関係性について世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、具体的に理解できること間違いなし!
万里の長城とは?
まず、万里の長城について、明の時代に整備された「本線」としては、東は河北省の「山海関(さんかいかん)」から始まり、西は甘粛省の「嘉峪関(かよくかん)」まで続く、全長2万kmを超える城壁のこと。これらは紀元前3世紀から17世紀まで、歴代の中国の王朝によって、整備・修復・拡大されてきた防衛システムです。
もともとは秦の始皇帝(紀元前259年〜紀元前210年)によって、北からの遊牧民族からの侵攻を防ぐため、各地に点在していた長城を組み合わせて建造されたもの。やがて世界最大の長城となりました。とはいえ、その範囲は現在の中華人民共和国内だけのものではあります。
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シルクロードとは?
まず、シルクロードとは、ドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェンによって名付けられたもので、一本の道を示すものではなく、古くから使用されてきた交易路の「総称」としてこの名称を使用したのです。そして、絹(シルク)が交易品として多かったことから「シルクロード」になったというのが理由。
とはいえ、一般的に日本人がイメージするのは、中国の長安から敦煌を通る、現在のウイグル自治区を中心に構成され、天山山脈を越え、中央アジアに抜けてトルコがあるアナトリア半島を繋ぐ「オアシスの道」。ちなみに、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録されているのは、このオアシスの道の一部。
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万里の長城とシルクロードとかぶる場所がある?
実は世界遺産としての万里の長城は、2万kmすべてが登録されているわけではなく、3つのエリアだけが登録。西端エリアは甘粛省嘉峪関市にあり、「嘉峪関」と呼ばれ、ここは明時代のシルクロードの西端でもあり、今でも当時の遺構が残っています。
一方、前漢(紀元前206年〜8年)の時代のシルクロードの西端は、もう少し西へ位置していました。その中でも世界遺産に登録されている「玉門関(ぎょくもんかん)」は、現在はシルクロードの世界遺産として登録されているものの、当時は万里の長城の西端でもあった場所。
つまり、シルクロードの世界遺産である「玉門関」は、もともとは万里の長城の一部であったという点で、2つの役割を持っていた奇跡的な史跡であるのです。
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世界遺産マニアの結論と感想
実はどちらも世界的に有名な史跡ではあるものの、世界遺産としての位置はかぶることがなく、その役割も異なっています。とはいえ、玉門関はシルクロードとしての世界遺産であるものの、もともとは万里の長城の一部であったことから、ある意味で万里の長城とシルクロードは密接に関係にあったということは言えるのではないでしょうか?
…ちょっと無理矢理感はあるかもですが。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。