メフメト2世(1432〜1481年)は、コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略して東ローマ帝国を滅亡させ、中東だけでなく、東ヨーロッパにまたがる領土を征服によって獲得したスルタンです。メフメト2世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はメフメト2世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、メフメト2世について具体的に理解できること間違いなし!
メフメト2世とはどんな人物?
二度の即位

1432年に当時のオスマン帝国の首都エディルネ(現在のトルコ北西部)に生まれ、彼は幼いころから異文化に興味を持っていたとされます。1444年に父ムラト2世がスルタンを退位した際、わずか12歳で即位するも、隙をつかれてハンガリーに侵攻されたため、ムラト2世が復位し、1446年にメフメト2世は一度退位。そして、1451年、父ムラト2世の死去に伴い、19歳で再びスルタンに即位しました。
コンスタンティノープルの陥落



当時のコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都でしたが、かつての繁栄は失われ、帝国内部の混乱も深刻化し、皇帝コンスタンティノス11世は、キリスト教世界からの支援を求めていましたが、十分な援助を得られていませんでした。
オスマン帝国のスルタンは何度も攻略しようとしても結局落とすことはできなかったのですが、彼は周囲にあえて要塞を築き、陸だけではなく、船を陸地から移動させて、半島を海から追い込み、包囲してから城壁を突破し、市内へ侵入。コンスタンティノス11世は戦死し、1000年以上の歴史を誇った東ローマ帝国は滅亡しました。そして、メフメト2世はオスマン帝国の首都をエディルネからコンスタンティノープルへ移し、インフラを整備。やがてモスクや市場を建設していきます。
征服者(ファーティヒ)と死



メフメトは30年以上に渡って各地へ遠征を行いました。彼は現在のトルコ北西部にしかなかった領土から、ギリシャやバルカン半島(セルビアやボスニア)、アナトリア半島東部の支配を強化しました。1461年にトレビゾンド帝国(ビザンツ帝国の残存国家)を滅ぼし、1475年にクリミア半島を征服し、黒海の覇権を確立。
彼は学問や芸術を奨励し、多くの学者・芸術家・建築家を庇護し、その治世下で中東やヨーロッパの文化が融合し、帝国は国際色豊かになりました。晩年は西ヨーロッパへも進出しようとローマ侵攻を計画。しかし、1481年に侵攻を開始しようとした矢先に彼が死去したため、この計画は頓挫。
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トプカプ宮殿/イスタンブール



イスタンブール旧市街がある半島の付け根ともいうべき場所に築かれた宮殿。ここは1460年代頃からコンスタンティノープルを陥落したメフメト2世によって建造された、オスマン帝国時代のスルタンの宮殿でした。
トプカプとはトルコ語で「大砲の門」という意味で、19世紀にスルタンが去った後に名付けられたもの。もともとは内陸にあった旧宮殿に対して「新宮殿(イェ二・サライ)」と呼ばれていました。
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世界遺産マニアの結論と感想
メフメト2世は「征服者」と呼ばれるだけあって、コンスタンティノープルを征服し、アナトリア半島だけでなく、バルカン半島にも多く征服し、オスマン帝国の大帝国化の基礎を築きました。帝国の中央集権化を進め、軍事と行政を強化。彼は残忍な性格かと思いきや、イスラム文化だけでなく、西洋文化にも理解を示し、学問や芸術を奨励したことでも知られます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。