エリザベス1世(1533〜1603年)は、16世紀後半のイングランドとアイルランドの女王であり、彼女の治世は「エリザベス朝」と呼ばれ、英国の黄金期の一つでもありました。エリザベス1世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はエリザベス1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、エリザベス1世について具体的に理解できること間違いなし!
エリザベス1世とはどんな人物?

1533年にイングランド王ヘンリー8世と2番目の王妃アン・ブーリンの間に生まれるも、1536年にヘンリー8世はアン・ブーリンを姦通罪や近親相姦罪で処刑。エリザベスは庶子(正式な王位継承権を持たない子)とされ、王位継承権を剥奪されてしまいます。しかし、父の6人目の妻であるキャサリン・パーに引き取られ、優れた教育を受け、英語だけでなく、ラテン語やイタリア語を書くことができ、教養のある女性として育てられました。
1547年に父ヘンリー8世が死去し、異母兄のエドワード6世が即位。しかし、彼は1553年に病死。異母姉のメアリー1世が即位すると、プロテスタントであったエリザベスはメアリー1世に警戒され、一時投獄。1558年にメアリー1世が死去すると、エリザベスが25歳で即位し、イングランドの女王となります。



エリザベスが即位した時代、イングランドではカトリックとプロテスタントの対立が深刻でした。 エリザベスは中庸な宗教政策をとり、1559年に「統一法」を制定。英国国教会を確立し、プロテスタントの立場を強化しました。
当時のスペインはヨーロッパでも最も繁栄したカトリック国家であったため、エリザベス2世は財政難を補うため、フランシス・ドレークなどの海賊活動を支援し、スペイン船を攻撃。スペインは激怒し、1588年はスペイン無敵艦隊(アルマダ)を派遣するも、これを撃破。イングランドの海軍の力を誇示できたものの、この段階ではまだスペインのほうが優勢でした。
その死因と遺体



エリザベスは生涯独身を貫いたため「処女王」と呼ばれます。結婚を政治的な道具とし、フランスやスペインの王族と縁談を持ちつつも、エリザベスは忠臣の死や政局の混乱で孤独を深めてしまい、晩年はうつ病に陥ってしまいます。
詳しい死因は不明ですが、1603年に69歳で死去。彼女の遺体は王室と関係が深いウェストミンスター寺院で葬られます。子供がいなかったため、後継者としてスコットランド王ジェームズ6世(ジェームズ1世)が即位し、イングランドとスコットランドの同君連合が成立しました。
エリザベス1世には恋人がいた?有名なエピソードも



エリザベス1世は生涯結婚しませんでしたが彼女には「恋人」と噂された男性は何人か存在し、ほとんどが側近です。最も有名なのはレスター伯のロバート・ダドリー(1532〜1588年)。ダドリーはエリザベス1世の幼馴染であり、彼女が即位すると1559年には枢密顧問官に就任したほど。
ダドリーは女王の寵愛を受け続けるもあまり評判は良くなく、最終的にはネーデルラント(現在のオランダやベルギーなど)に司令官として出兵するも失敗。1588年には健康を悪化させて病死してしまいます。エリザベスは彼の死に深く悲しみ、彼の最後の手紙を生涯手放さなかったという逸話があるほど。
エリザベス2世との関係は?



エリザベス1世には子供がいなかったため、エリザベス2世(1926〜2022年)は直接の子孫ではありませんが、先祖を共にしています。彼女は1世の名前から名づけられたわけではなく、彼女の曾祖母アレクサンドラ王妃、「エリザベス・アレクサンドラ・メアリー」から名を取ってエリザベスと名付けられました。ちなみに、母の名前の「エリザベス・ボーズ=ライアン」。
とはいえ、エリザベスという名前で即位したというだけでなく、二人とも強いリーダーシップを持ち、それぞれの時代で国を安定させ、国民の支持を得ています。エリザベス1世は45年、エリザベス2世は70年という長期統治を実現したというのも同じですね。
エリザベス1世にまつわる世界遺産はこちら!
ロンドン塔/イギリス



イギリスの首都ロンドンのイーストエンドに位置するロンドン塔は、現在の英国王室のルーツであるノルマン朝のウィリアム1世によって、ロンドンの玄関であると同時に首都を防衛する要塞として建造されたもの。
16世紀にはヘンリー8世の妻、アン・ブーリンとその娘であるエリザベス1世もロンドン塔に幽閉されたことも。エリザベス1世は女王に即位しましたが、アン・ブーリンを含め、ヘンリー8世の妻キャサリン・ハワード、英国初の女王ジェーン・グレイなどがここで処刑されたことでも有名です。
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ウェストミンスター寺院(アビー)/イギリス



イギリスの首都ロンドン中心部の西側、テムズ川沿いにあるウェストミンスター地区。ここには、11世紀にエドワード懺悔王が王宮と宮殿を設置して以来、イギリスの政治と宗教の中心となった場所です。
イギリスとフランスのゴシック様式が混じり合うウェストミンスター寺院では、ほとんどの王がここで戴冠式を行っています。そして、エリザベス2世もこの寺院で埋葬されていて、その棺は現在も安置。
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世界遺産マニアの結論と感想
エリザベス1世は英国国教会を確立し、スペイン無敵艦隊を撃破したことからイングランドを海洋大国へと成長する第一歩、大英帝国の基礎を築いた女王でもあります。彼女の治世は、経済も発展し、劇作家ウィリアム・シェイクスピアのように文化の発展が著しく、「エリザべス朝」と呼ばれるほどの黄金時代を築きました。一方、晩年はインフレも発生、税金が上がったことから晩年は人気は衰え、女王もうつ病となり、人気は衰えてしまいます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。