登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (6) |
登録年 | 2011年 |
中尊寺は「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つ。黄金に輝く金色堂があることで有名ではありますが、中尊寺はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは中尊寺がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、中尊寺について詳しくなること間違いなし!
中尊寺とは?金色堂には奥州藤原氏の御遺体(ミイラ)がある?
中尊寺の創建は、850年に円仁(慈覚大師)によって開創されたとされるものの、実質的には奥州藤原氏の初代・藤原清衡(きよひら、1056〜1128年)が12世紀初頭に平泉を造営する際に建立した寺院だとされています。約100年に渡って奥州を支配した藤原氏によって金色堂を含めて美しい建造物が作られましたが、奥州藤原氏は1189年に源頼朝によって滅亡。
中尊寺はその後も頼朝によって保存されたものの、1337年の火災によって金色堂以外はほぼ全焼してしまいました。現在の建造物はほとんど再建されたもの。
中尊寺金色堂
1124年に建築された、金色に光る阿弥陀堂。方三間という阿弥陀如来の仏国土(浄上)を表す仏教建築で作られたもので「阿弥陀堂建築」としては国内最古の寺院。
金色堂は、中央壇と右壇、左壇ともに阿弥陀三尊像を中心に、合計11体の仏像から構成されています。どれも金箔が貼られており、豪華絢爛な姿はまさに極楽浄土を表すもの。仏堂ではありますが、堂内の須弥壇には、藤原四代の「御遺体(ミイラ)」が納められています。中央壇にある棺が藤原清衡で、その横に息子の基衡(もとひら)、孫の秀衡(ひでひら)の棺があり、さらにひ孫の秦衡の首級が置かれていました。
もともとは金色堂は屋外に置かれていましたが、その保存のために数十年後には霧除けが作られ、1288年には鎌倉将軍によって金色堂を囲むように「覆堂」が建造されました。現在の覆堂は1965年に建設された鉄筋コンクリート製で、金色堂はガラスケースに覆われています。
金色堂旧覆堂
金色堂の西側に位置する旧覆堂は、室町時代から1962年まで金色堂を覆っていた、かつての覆堂。鎌倉時代から使用されていたため金箔が剥がれたり、ネズミの被害に遭ったりと、劣化が進んだために、旧覆堂は「重要文化財」として保管されています。
経蔵
金色堂の隣にあり、『紺紙金字一切経』を保存していた建築物で国宝に登録。一切経(いっさいきょう)とは、仏教の経典のことで、ここは清衡によって作られた、一行おきに金字と銀字で書写した『紺紙金銀交写経』など、平安時代の経典を保管する場所として貴重なもの。建物の一部は平安時代の木材が使用されているものの、現在の経堂は鎌倉末期に建造されたと考えられています。
白山神社(はくさんじんじゃ)能舞台
白山神社は中尊寺の鎮守神(ちんじゅがみ)であり、敷地内に神社がありましたが、1849年に火災で焼失。16世紀には関白の豊臣秀次と伊達政宗がここで能を観覧したことから、1853年に再建され、現在は重要文化財に登録。ここは東西に長い入母屋造(上部は切妻造、下部は寄棟造というもの)で、西半分が舞台、東半分が楽屋という構造となっています。
中尊寺はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
中尊寺が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
中国や朝鮮半島から伝来した仏教が、12世紀に浄土思想として、日本古来の自然崇拝と融合し、平泉で花開いたという点。
登録基準(vi)
平泉には浄土(仏国土)を空間的に演出した建築物や庭園の理念が存在したという点。
世界遺産マニアの結論と感想
中尊寺は大陸から渡来した仏教が日本の自然崇拝と合わせて「仏国土(浄上)」を表現した建築物で、金色堂は黄金を駆使した傑作であるという点で評価されています。
ちなみに、金色堂の中央壇にある棺が藤原清衡で、以前は左壇が息子の基衡、右壇が孫の秀衡と伝わっていたのですが、1950年の調査によると、左壇の被葬者が秀衡、右壇の被葬者が基衡である可能性が高いとされ、現在はこちらが定説。でも、基衡は50代で死亡したとされるものの、その遺体の診断結果としては60代に亡くなったとされる可能性もあるので、そうなると一致はせず…このあたりはまだまだ謎がありそうですね。
意外な話ですが、当時のミイラの技術はかなり進んでいたらしく、内蔵や生殖器も除去されてからミイラにされたと考えられているので、ほぼ900年前の遺体がほぼ完璧に現在に残されたというのは驚きですね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。