登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (4) |
登録年 | 2015年 |
百済(4世紀前半ころ〜660年)はかつて韓国の西部を中心に存在した王国で、韓国中西部の山岳地帯に位置する8つの考古学遺跡には、百済の首都であった熊津(ウンジン)の公山城(コンサンソン)や王宮跡、古墳などで構成され、これらの遺跡は百済後期の繁栄を示し、中国や日本など古代の東アジアの王国間の芸術の交流が見られるもの。
ここでは百済歴史地域がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、百済歴史地域について詳しくなること間違いなし!
百済歴史地域とは?
百済は朝鮮半島の三国時代(4〜7世紀ころ)の西部に存在した国家で、韓国の中西部の山岳地帯は、百済後期の熊津時代(475〜538年)、泗沘時代(538〜660年)に渡って首都が置かれた場所で、8つの考古学遺跡で構成されています。これらは特に近隣諸国と頻繁に交流を行った最盛期のもので、中国の都市設計や建築技術、芸術、仏教が持ち込まれ、他にも朝鮮半島の国家や海を越えて倭国(日本)との交流が見られます。
世界遺産としては、忠清南道が多く、百済の首都であった熊津(ウンジン)にある公山城(コンサンソン)、宋山里(ソンサン二)古墳群、陵山里(ヌンサンニ)古墳群、扶蘇山城(プソサン)跡、定林寺址などが登録。全羅北道にある王宮里遺跡や2つの石塔が残る弥勒寺址なども合わせて登録されています。
百済歴史地域はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
百済歴史地域が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
百済歴史地域の考古学遺跡と建築物は、建築技術の発展と仏教の普及において、韓国と中国、日本などを含めた古代の東アジア各国の交流を示しているという点。
登録基準(iii)
百済歴史地域は、かつての首都に置かれていた仏教寺院、墳墓、建築、石塔などが残り、これらは百済独自の文化、宗教、芸術などを示すものであるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
百済はかつて朝鮮半島西部で発展した国家で、これらの遺産は当時の中国や日本と交流が盛んだった百済の繁栄を示すもので、当時の文化や宗教、芸術などが今でも分かるという点で評価されています。
実は朝鮮半島にも前方後円墳のような古墳があり、日本の古墳時代と同時期に建造されたもの。しかし、韓国では前方後円墳とは呼ばず、その形がチャングという太鼓に似ていることから「長鼓墳(チャンゴブン)」と呼ばれます。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。