登録区分 | 登録区分 |
登録基準 | (2), (3) |
登録年 | 2000年 |
エチミアジンは首都エレバン郊外に位置し、301年にアルメニア初の司教座が置かれた場所。大聖堂やスルブ・ガヤネキョイ教会など、ドーム天井の十字架型の聖堂は、このエリアの建築と芸術の発展に繋がっていきました。
ここではエチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、エチミアジンの大聖堂と教会群、ズヴァルトノツの考古遺跡について詳しくなること間違いなし!
エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡とは?
エチミアジンは、首都エレバン郊外にある都市。トルコとの国境であるアララト山北部にあるこのエリアは、石器時代、青銅器時代、鉄器時代の考古学遺跡があり、古くから人が住んでいました。アルメニア王国(紀元前190年〜428年)は301年に、世界で初めてキリスト教を国教に定めた国で、エチミアジンはアルメニア使徒教会初の主教座が置かれた場所。
エチミアジン大聖堂とスルブ・ガヤネ教会
エチミアジンの中心部にある大聖堂は、アルメニア使徒教会の初代大主教・啓蒙者グレゴリオスによって4世紀に建造。4つの後陣(アプス)と4本の柱に支えられた大きなドーム天井を持つ、十字架型の聖堂で、アルメニア独自の教会建築です。
しかし、アルメニア王国が5世紀に滅ぶと、アルメニアの建築家はビザンツ帝国で社会的優位性を築き、そして、アルメニアの教会建築は西ヨーロッパまで広がっていきました。現在の大聖堂は、5〜7世紀に初期ビザンツ様式に改修されたもの。
大聖堂に近くにある、スルブ・ガヤネ教会は7世紀に建造され、アルメニアと西アジアで広まった、3つの回廊と中央のドームを組み合わせた、初期アルメニア様式の教会です。17世紀に教会の屋根と壁は修復されたものの、保存状態は良好。
スルブ・フリプシメ教会
エチミアジン郊外に位置するスルブ・フリプシメ教会は、7世紀に建造され、これもこの時代に流行した中央ドーム型の教会の一つ。耐震性が強いにもかかわらず、見事な内部装飾が特徴。ここには、1970年代に初期キリスト教徒の埋葬地と小さな教会跡も発見されています。
ズヴァルトノツの考古遺跡
こちらもエチミアジン郊外に残る遺跡。ここは7世紀にカトリコス・ネルセス3世によって聖堂が建造。3階建ての円形構造で4つの後陣(アプス)があり、45mの高さを誇る聖堂があったとされますが、10世紀に地震によって崩壊し、地中に埋もれていました。1900年に発掘され、現在は土台などが見られます。そして、周囲には宮殿やワイナリー跡なども発掘されました。
エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
エチミアジンの大聖堂と教会群、ズヴァルトノツの考古遺跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
エチミアジンの大聖堂と教会群、ズヴァルトノツの考古遺跡は、この地で教会建築が発展したことを示し、広い地域にこのエリアの建築様式が拡大していったということ。
登録基準(iii)
エチミアジンの大聖堂と教会群、ズヴァルトノツの考古遺跡には、アルメニア使徒教会の精神と芸術が見られ、それが装飾や壁画などにも表れているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
エチミアジンと周囲のズヴァルトノツは、世界初のキリスト教国家となったアルメニア使徒教会の主教座が置かれた地でもあり、独自の教会建築の発展が見られ、国が滅んだ後も、ビザンツ帝国を経由して西ヨーロッパまで伝わっていったという点で評価されています。
アルメニア使徒教会は、日本人にはあまりイメージないかもしれませんが、現在のアルメニアは、イエスの十二使徒であるタダイとバルトロマイがキリスト教を宣教したというほどに由緒正しい一派。日本では十二使徒というとペテロやヨハネのイメージがありますが、ここでは2人は有名人です。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。