登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3), (4) |
登録年 | 1992年 |
メキシコ湾岸に位置する都市遺跡は、古典期後期の9〜13世紀に繁栄した都市遺跡。ここでは現地に住むトトナカ人もしくはワステカ人によって築かれた都市で「壁龕のピラミッド」は365もの壁龕を持ち、カレンダーのような機能を持ったとされます。ここには球技場が17ヶ所もあるのが特徴。
ここでは古代都市エル・タヒンがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、エル・タヒンについて詳しくなること間違いなし!
古代都市エル・タヒンとは?
メキシコ湾の西岸に広がるベラクルス州の都市パパントラから南西へ8kmに位置する都市遺跡。ここは現地に住むトトナカ人もしくはワステカ人によって築かれ、「タヒン」とは稲妻という意味で、神話から由来するもの。現在のメキシコシティを中心に繁栄した大国テオティワカンが7〜8世紀に滅ぶと混乱期に入り、それ以降はメキシコ北東部の文化と経済の中心地となりました。
ここは紀元前100年ころから紀元100年には既に集落があったとされていますが、9〜13世紀には人口が1万5000人から2万人にも渡るほどに繁栄。13世紀以降は、現在のメキシコシティを中心に栄えたアステカ帝国の支配下に置かれ、都市は破壊されてしまいます。
エル・タヒンは3つのエリアで構成されていて、北の低地にあるタヒン・チコが都市の中心で、西尾根地区と東尾根地区にも建造物が並びます。タヒン・チコは完全に発掘されていないものの、ここは王や貴族、神官などが住んでいたエリアで、南側には「壁龕のピラミッド」が残っています。
ここには球技場が17ヶ所も残っていることで有名で、その数の多さは他の遺跡とは段違い。球技場の石壁には、球技をしている人々の様子などが描かれています。特にタヒン・チコにある「南球技場のレリーフ」は6つの石壁があり、球技者が生贄に捧げられているという場面も刻まれていて、当時の人々の概念や宗教、生活などが見られるのが特徴です。
壁龕のピラミッド
タヒン・チコに位置する、この遺跡を代表する建造物。これはタルー・タブレロ式の階段ピラミッドの構造で、基壇(タルー)と斜面部分(タブレロ)を組み合わせたもの。
現在は高さ20mだけ残存していて、6段の基壇を持ちます。最大の特徴は各段に壁龕が配されていて、失われた部分を加えると365箇所もの壁龕が存在したこととされるもの。この365という数は、太陽暦の特定していて、カレンダー的な機能があったともされています。
古代都市エル・タヒンはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
エル・タヒンが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
エル・タヒンの起源は、この地域に住むトトナカ人もしくはワステカ人によるものとされていますが、今でもはっきりとはしていません。確実に言えるのは、古典期後期のメキシコ湾岸で最も繁栄した都市で、遺跡から発掘されたレリーフなどからは、当時の社会や儀式、日常生活が分かり、建築や芸術においては重要であるという点。
登録基準(iv)
エル・タヒンは、湾岸沿いの地形に合わせて設計していて、17もの球技場、公共の建造物、邸宅、祭壇、住宅の跡などが残っているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
エル・タヒンは、ここを建造した民族は詳しく分かっていませんが、17もの球技場や壁龕のピラミッドなど、メキシコの古典期後期に大いに繁栄した姿を現在に残し、当時の社会や芸術様式などが分かるという点で評価されています。
ちなみに、周辺の遺跡でも球技場が多く発見されていて、古代メキシコにおいても球技が盛んだった地域。彼らは球技の際に「ヨーク」という腰当てを付けて参加したようで、別に古代から現代サッカーが行われたわけではなく、宗教儀式という側面もあった様子。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。