登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3) |
登録年 | 2023年 |
韓国の中南部にはかつて伽倻(かや)と呼ばれた小国が並んでいて、日本の古墳時代と同じように有力者たちは自らの社会的地位を示すために古墳を建造していました。特に世界遺産に登録されているエリアは伽倻の形成期から熟成期まで多くの古墳が並び、副葬品も出土しているという点で重要なものです。
ここでは伽耶古墳群が、なぜ世界遺なのか?世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、伽耶古墳群について詳しくなること間違いなし!
伽耶古墳群とは?
伽倻とは、1〜6世紀に朝鮮半島の中南部に存在した、小国が並ぶエリアのこと。この地には多くの小国が存在し、600年の間に数十万基もの古墳が築かれた地でもありました。その中でも、金海大成洞(キムヘ・テソンドン)、咸安末伊山(ハマン・マリサン)、陜川玉田(ハプチョン・オクジョン)、高霊池山洞(コリョン・チサンドン)、固城松鶴洞(コソン・ソンハクトン)、昌寧校洞・松峴洞(チャンニョン・キョドン・ソンヒョンドン)、南原酉谷里・斗洛里(ナムォン・ユゴクリ・トゥラクリ)の7箇所が登録。
まず、この地で墓が建造され始めた1〜2世紀には、小規模な木造の棺墓(かんぼ)で、身分に関係なく、埋められていましたが、3〜4世紀になると高貴な身分の人物は、丘の上に木製の玄室が埋葬されるようになりました。特に現在の金海(キメ)市にあったとされる金官国の古墳群「金海大成洞」がこの時期にあたり、工芸品や副葬品などと一緒に埋められていたということが分かっています。
5世紀になると、墳丘や山の上に築かれるようになり、埋葬室は被葬者、副葬品、殉葬者の部屋に別れていて、その周囲に列石墓が並ぶという構造でした。この頃に建造されたのが、伽耶古墳群の中でも最大規模の「高霊芝山洞」の古墳群。ここは伴跛という国の古墳であり、「大加羅」とも呼ばれたため伽耶諸国の中でも有力な国であったと推測されています。
しかし、6世紀になると、金官国は半島の東側に存在した新羅(紀元前57年〜紀元935年)によって征服され、その他の加羅諸国も新羅に滅ぼされてしまいます。その後は古墳は建造されなくなりました。
伽耶古墳群はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
伽耶古墳群が評価されたのが、以下の点
登録基準(iii)
これらの古墳は、広域に分布し、その独特な景観、埋葬のパターン、副葬品などの文化的共通点があり、各地に独立した政治システムが存在したことを証明するものである一方、新たなるスタイルの埋葬の導入やその発展は、当時の伽倻の社会の変化を反映しているという点で評価されています。
世界遺産マニアの結論と感想
伽倻古墳群は、東アジアの国家の形成期に小国が並ぶ特殊なエリアであった伽倻が外国を含めて各国との交易が盛んであったということを示し、古墳からは階層社会の存在、そして当時の文化まで分かるという点で評価されています。
ちなみに、伽倻という古代国家においては『日本書紀』にも記載があることから、韓国と日本ともに今でも議論が活発なテーマなのですが、金官国の初代首露王(しゅろおう)の妃は、なんと現在のインドから嫁いできたという資料もあって、さらに複雑に。しかも、昨今の調査では韓民族はインド南方系のミトコンドリアDNAを持っていて、実はインドにも起源があるのではないか?という説も。…古代というのは、我々が思う以上にまだまだ不明なことが多いのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。