登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4) |
登録年 | 1988年(1991年拡大) |
ペルーの首都リマは、16世紀にフランシスコ・ピサロによって築かれ、18世紀までペルー副王領の首都として南米のスペイン領の中心地でした。町には、南米建築の最高傑作とされるサン・フランシスコ修道院など、ヨーロッパと南米の文化の融合が見られる建築物が並びます。
ここでは、リマ歴史地区がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、リマについて詳しくなること間違いなし!
リマ歴史地区とは?
リマはペルーの西海岸沿いにあり、リマリック川南岸にある都市。ここは1535年にスペインの征服者(コンキスタドール)であるフランシスコ・ピサロがここを「副王たちの都」として都市を築きました。リマはスペインの首都マドリードをモデルにして、街の中心であるアルマス広場を中心に碁盤の目のような区画で設計。しかし、1541年にピサロは暗殺されてしまいます。
1542年になるとリマは、ペルー副王領の首都となり、政治と経済、宗教、すべての分野で南米大陸の中心都市となりました。ペルー副王領というのは、新大陸におけるスペインの植民地を指し、スペイン国王が任命した副王が統治するというシステムで、これは18世紀に南米諸国が独立するまで続けられました。
16世紀になると、アルマス広場(現・マヨール広場)の前に大聖堂が築かれ、町には南米最古の大学であるサン・マルコス大学や病院なども置かれるようになると、文化の中心地として栄えました。特にサン・フランシスコ修道院は、南米建築における最高傑作とされ、地震で損壊したため、バロック様式やイスラムとスペインの折衷様式であるムデハル様式などが加えられたもの。
リマは何度も大地震が発生し、建築物は何度も修復されてきました。歴史地区は、17〜18世紀に建造されたバロック様式の建築物もいくつか残っています。他にも16世紀の姿を残すサント・ドミンゴ教会や19世紀まで宗教裁判が行われていたラ・インキシシオン宮殿なども点在。歴史地区は現在でもペルー副王領時代の景観が今でも残っています。
登録されている主な構成資産
大聖堂(カテドラル)
マヨール広場に面した大聖堂で、かつてのインカ時代の宮殿跡に建造されたもの。ペルー最古の大聖堂として有名。1535年の起工した時はピサロ自ら礎石を据ましたが、その後地震などもあり、工事が中断し、完成したのは結局17世紀後半。
しかし、地震により崩壊し、現在見られるものは18世紀に再建されたもの。スペイン独自のチュリゲラ様式で建造され、1891年からはピサロの遺体を入れた石棺が置かれています。
サン・フランシスコ教会・修道院
マヨール広場から北東の位置にある修道院で、南米の建築史において最高傑作とされるもの。16世紀後半に建造されるも、17世紀の地震で崩壊。その後、再建され、バロック様式やムデハル様式などの要素が加えられていきました。外装の黄色のタイルはスペインのセビーリャ産のもの。
館内の図書館は、15〜18世紀にかけて収集された2万5000もの蔵書が残り、ここは宗教や文化の研究機関として活躍しました。1810年まで地下墓地がリマ市民の墓地として使用されていて、7万もの人々が埋葬されています。
トーレ・タグレ宮殿
1730年にペルー独立運動の英雄サン・マルティン将軍によってトーレ・タグレ公爵のために建造された宮殿。その面積は約1700平方mの広大なもので、南米やパナマなどから持ち込まれた素材を使用した贅沢な建築物です。
外観はリマ独特のバロック様式で、2階に建造されたムデハル様式の木製のバルコニーを加えられた美しいもの。現在はペルー外務省として使用されています。
リマ歴史地区はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
リマが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iv)
リマの歴史地区は、スペインの植民地時代の都市計画と建設物が残されていて、サン・フランシスコ教会・修道院など、地震などの影響を受け、何度も再建しつつも、ここで文化が発展してきたという証拠を残しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
リマは大地震が何度も発生しているので、ピサロの時代の建造物はほとんど残っていませんが、その区画などは残しつつ、何度も再建されていて、その度に新しい建築様式を取り入れながら発展してきたという点で評価されています。
ちなみに、リマ市内には「天野博物館」があり、ここは南米で活躍した実業家であり、アンデス文明の研究家であった天野芳太郎によるコレクションを展示したもの。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。