登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3) |
登録年 | 2008年 |
アル=ヒジュルの考古遺跡は、ナバテア人の都・ペトラの南にあるナバテア文明の最大の遺跡。紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて作られた、保存状態の良い墓石群で知られています。
ここでは、アル=ヒジュルの考古遺跡(マダイン・サーレハ)がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アル=ヒジュルの考古遺跡について詳しくなること間違いなし!
アル=ヒジュルの考古遺跡(マダイン・サーレハ)とは?
この地はもともとマダイン・サーレハ(サーレハの街)と呼ばれ、クリアーンではアル=ヒジュル(岩だらけの場所)として呪われた地と信じられてました。
実際は、紀元前1世期〜紀元1世紀に現在のヨルダン西部を中心に栄えたナバテア王国の遊牧民が住んでいた都市。そして、ナバテア人が住む前にも人々が住んでいて、約50の碑文といくつかの洞窟壁画も残っています。アル=ヒジュルには、なんと111の墓石があり、そのうち94が装飾が残るもので保存状態も良好。それらはアッシリアやエジプト、フェニキアなど、オリエントの文明の影響が見られます。
交易地として栄えた王国ではありますが、遺跡内には井戸も点在していて、かつてはこの地で農業が行われていたということも分かっています。
アル=ヒジュルの考遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
アル=ヒジュルの考古遺跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
アル=ヒジュルは、アラビア半島、地中海地方、アジアの交易路にあり、さまざまな文明の出会う場所だったという点。
登録基準(iii)
遺跡には井戸があり、現在はほとんどが使用できませんが、ナバテア人が水を利用して農業を行っていたということを示しているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
クルアーンには、使徒を無視したために、アル=ヒジュルの民が滅んだことから呪われた場所と記されています。実際のところはイスラム化以前に放棄されていたので、こういう伝説が作られたのでしょうか?かつてはさまざまな文明の交差路として、通商と農業で栄えた都市だったと今では考えられています。ナバテア王国の遺跡としては、有名なペトラ遺跡の次に規模の大きい遺跡。
今では、観光名所として有名ですが、現地の人々はムスリムのため、旅行者を案内するのはあまり気分が良くないということも。果たしてこの地は呪われた場所だったのでしょうか…?真実は謎のまま。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。