ホンジュラスの世界遺産「コパンのマヤ遺跡」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(4),(6)
登録年1980年

ホンジュラスの西端に位置するコパンは、5〜9世紀に繁栄したマヤ文明の国家の一つ。ここは7世紀のワシャック・ラフン・ウバク・カウィルの時代に最盛期を迎えるものの、9世紀に崩壊。遺跡には神聖文字の階段や歴代のコパンの肖像が刻まれた祭壇Qなど、貴重な遺物が多く残り、保存状態は良好です。

ここではコパンのマヤ遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、コパンについて詳しくなること間違いなし!

目次

コパンのマヤ遺跡とは?

画像素材:shutterstock

グアテマラとの国境の近く、モタグア川の支流であるコパン川沿いの盆地に残る遺跡は、かつてのコパン王国の都市遺跡。ここは紀元前1400年頃から人が住んでいたことが分かっていて、メキシコ湾沿いに栄えた、中央アメリカ初の文明であるオルメカ文明の影響を受けていたと考えられています。

この地は黒曜石や翡翠の産出地であったため、その交易地としてコパン王朝が成立し、5世紀に神官であったキニチ・ヤシュ・クック・モが王として即位してから9世紀まで17もの王が即位しました。ここはマヤ文明南部の中心都市となり、7世紀の第13代のワシャック・ラフン・ウバク・カウィル(18ウサギ王)の頃が軍事面や経済面でも最盛期となりました。

しかし、現在のグアテマラ東部にある衛星都市であったキリグアが反乱を起こし、ワシャック・ラフン・ウバク・カウィルが斬首されると、衰退し始め、9世紀に第16代の王ヤシュ・パッサフ・チャン・ヨアートが死去すると、その2年後の822年以降、第17代の王ウキト・トークの祭壇が中途半端に築かれた後は、この王朝は途絶えたとされています。

登録されている主な構成遺産

遺跡は5つの広場と神殿や祭壇が並ぶアクロポリスから構成されていて、4500以上の遺構が発見されています。石材は凝灰岩を使用していて、他のマヤ文明の遺跡と比べ、表現力が格段に高く、王や神官、ジャガー、カメなどが刻まれた石像が点在。

神聖文字の階段

画像素材:shutterstock

アクロポリスにある神殿26は、第15代の王カック・イピヤフ・チャン・カウィールがコパン王国を再興しようと8世紀に建造したもの。72以上の階段に2200以上のマヤ文字が刻まれているため、神聖文字の階段と呼ばれています。しかし、ここは各ブロックが崩壊した後に再建されたため、現在の文字列はバラバラです。

祭壇Q

776年に第16代の王ヤシュ・パッサフによって建造され、四角の祭壇は、コパン王の正当性を示すため、各面に4人の王の肖像と名前が刻まれていて、合計で16人の王の名前が刻まれていることから王朝史を知るために役立つもの。

コパンのマヤ遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

画像素材:shutterstock

コパンが評価されたのが、以下の点。

登録基準(iv)
コパンのマヤ遺跡には、神殿や広場、祭壇、石碑などがあり、そのデザインは、マヤ文明の古典期(300年頃〜900年頃)でも、その数や規模は圧倒的で、かつてこの地域に存在していた高度な文明の存在を示す建築物であるということ。

登録基準(vi)
神聖文字の階段は、マヤで最も長い碑文で、これはメキシコからホンジュラスまでマヤ文明の文化圏の広さを示すという点で、歴史的に重要であるという点。

世界遺産マニアの結論と感想

コパンは、マヤ文明の南部でも中心都市の一つであり、古典期(300年頃〜900年頃)の建築物が多く見られるという点で評価されています。そして、神聖文字の階段などは、マヤ文明の広大な文化圏を示すという点もポイント。

2000年にアクロポリスの下から、初代国王のキニチ・ヤシュ・クック・モと思われる墓が発見され、彼の像と同じように、遺体はゴーグル型の頭飾りを付けていました。ちなみに、生前は肩を骨折したことも分かっていて、どうやら球技の試合によるものだと考えられています。…王であったのにスポーツに夢中だった様子。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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