登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2) ,(3) |
登録年 | 1980年 |
モヘンジョダロは「死の丘」という意味。パキスタン南部、インダス河沿いにある広大な遺跡は紀元前2500〜1500年頃に栄えた大都市の名残。西側に城塞、東側には整備された市街地があり、人類初期の都市計画によって作られた都市の姿を現在でも残しています。
ここでは、モヘンジョダロの遺跡群がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、モヘンジョダロの遺跡群について詳しくなること間違いなし!
モヘンジョダロの遺跡群とは?その場所とインダス文明との関係は?
「死の丘」という怖い名前をつけられた遺丘
まず、インダス文字は現代でも解読されていない文字なので、インダス文明(紀元前2600年頃〜紀元前1500年頃)のことは詳しいことはわかっていません。よって、これから説明するものは都市を調査した結果、あくまでも“こうであった”と予測されることなのでご理解ください。
モヘンジョダロは、南アジアで最も保存状態の良い都市遺跡。インダス川の右岸にあり、パキスタン南部のカラチから北東に510 km、ラルカナから南に28kmの位置にあります。現地の言葉で「死の丘(モヘンジョ=ダーロ)」と名付けられた場所で、遺跡が発見された1922年まで、死者が眠る墳丘として地元の人が訪れない場所でした。ここは世界4大文明の一つとしても有名なインダス文明を代表する都市で、紀元前2500頃〜紀元前1800年頃に栄えたと推測されるもの。
遺跡は下水道まで整備されたインダス文明の都市
発掘により、住民の生活や芸術などが明らかになり、都市はよく整備されており、ほとんどが焼きレンガで建てられていて、大浴場まであったほど。精巧な排水システムが配置されていて、井戸や下水道まであり、当時の都市としてはかなりの技術力を持った都市であると考えられています。
モヘンジョダロは2つのエリア構成されています。西側には、2世紀にレンガで作られていた仏舎利塔が建てられていた城塞エリア。インダス川沿いに立つ東側には、都市遺跡が広がっています。ここは、直角に交差する通りが配置されている上に、排水システムまであるという計画都市でした。
モヘンジョダロが滅んだ理由は?その謎は?
実は、これだけ広大な遺跡にもかかわらず、王宮や神殿などは発見されておらず、ここには権力者が「存在しなかった」と考えられています。遺跡から発見された「神官王像」と呼ばれる像もありますが、実はこれも王や神官を表したものという証拠もないのです。
モヘンジョダロは、4万人もの人々が暮らしたと推測されているものの、インダス文字が解読されていないので、本来の都市名も不明。そして、この都市がなぜ滅んだのかもわかっていません。近年では、気候変動からインダス川の洪水によって衰退し、住民は周辺へと移住しなければならなかったという説もあるものの、まだまだ確かなことは言えないというのが現状。
モヘンジョダロは核兵器戦争によって滅んだ?
トンデモ説でもあるのですが…モヘンジョダロの遺跡で発見された白骨死体は、高温にさらされた跡が見られ、放射能の影響もあると考えられることから「核爆弾」による影響なのではないか?と考える研究者もいます。確かに、周囲には火山活動がないために、このような状況は核爆弾並みの熱量がないとありえない…というのが根拠。
古代インドの叙事詩『マハーバーラタ』には「インドラの雷」といった核爆弾のような描写もあるといえばあるのですが、遺体は紀元前2030年〜紀元前1930年という分析があり、都市が滅んだ時期とも合わず、証拠としてはかなり弱いもの。あくまでも「ロマン」ですかね。
モヘンジョダロはどんな理由で世界遺産に登録されているの?
モヘンジョダロの遺跡群が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
モヘンジョダロは、インド亜大陸で最も古い部類の計画都市であり、その後の都市建設のモデルとなったという点。
登録基準(iii)
保存状態の良い都市遺跡は、インダス文明の存在を明らかにしているということ。
世界遺産マニアの結論と感想
学生時代に必ず習うといったも良いほど有名なインダス文明ですが、意外と知ってそうで知らないですよね。4大文明の中でも分からないことが多いインダス文明ですが、モヘンジョダロが発見されたことでその存在が明らかになり、インド亜大陸の建築史で言えば、建築の起源のような場所なのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。