イランの世界遺産「ペルセポリス」とは?場所はどこ?碑文を含めて世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(1),(3),(6)
登録年1979年

イラン南部の高原に位置するペルセポリスは、紀元前518年にアケメネス朝ペルシャの王・ダレイオス1世によって築かれた宗教都市。広大な領土を持ったアケメネス朝が築いた都市だけあって、豪華な宮殿が建設されました。現在はほとんどが崩壊してしまいましたが、壮麗なレリーフや門、宮殿跡などからは当時の様子がイメージできるほど。

ここでは、ペルセポリスがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ペルセポリスについて詳しくなること間違いなし!

目次

ペルセポリスとは?その場所は?

ペルセポリスはいつ建造された?

ペルセポリス
画像素材:shutterstock

ペルセポリスは、イラン南部のファールス州の高原に位置する広大な遺跡。州都であるシーラーズから北東へ60kmに位置していて、ペルシャ語では「タフテ・ジャムシード」と呼ばれています。

アケメネス朝ペルシア(紀元前550年〜紀元前330年)は、西はエーゲ海、東はインダス川まで支配した世界帝国。3代目の王であったダレイオス1世(紀元前550年頃〜紀元前486年)は、遺跡の北東にあるパサルガダエから遷都。当時のアケメネス朝の王は、イランのスーサやエクバタナ(現在のハマダーン)、イラクのバビロンなどで過ごし、ここは儀式用の都市であったとも考えられています。しかし、ペルセポリスとは「ペルシャ人の都」を意味しており、ダレイオス1世から息子のクセルクセス1世にかけて60年もかけて建造されたことから重要な都市であったことは確かです。

大量に碑文が発見された?都市遺跡の構造

クセルクセス門/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

ペルセポリスは、自然の岩盤を利用し、20mほどの基壇の上に建造物が建つといった構造でした。長辺が約450mで、短辺が約300mの広大な敷地に、巨大なクセルクセス門、謁見の間である「アパダーナ」、王座殿、宝物庫などが築かれています。大基壇に登るためには、111段の階段を登る必要があり、これは馬車も通ることができるほど幅広なもの。この都市を建造するため、「王の道」と呼ばれる全長2700kmの道路を利用して、物資と人材が集められたのです。そして、各地から王に謁見するために朝貢団が訪れました。アパダーナのレリーフには、各地からの朝貢団が描かれています。

しかし、紀元前330年に、マケドニアのアレクサンドロス大王によって帝国は滅亡。ペルセポリスも廃墟となりました。遺構だけは周囲がイスラム化された後も残され、20世紀前半からは発掘調査によって大量の碑文や楔形文字で刻まれた粘土板なども発掘されました。

登録されている主な構成資産

アパダーナ(謁見の間)

アパダーナ(謁見の間)/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

ペルセポリスで最も豪華で規模の大きい宮殿。110m四方の広大な敷地に、高さ72mの柱が72本あったとされています。東の階段に残るレリーフには、アケメネス朝が支配した各国の朝貢団が描かれており、その規模は圧巻。

王座殿

王座殿/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

アパダーナに次ぐ規模で、ここはクセルクス1世(紀元前519年〜紀元前465年)の時代に建造され、その息子のアルタクセルクセス1世(紀元前464年〜紀元前424年)によって完成したもの。100本の柱が並ぶ「百柱の間」という広大な広間も残ります。他には、ゾロアスター教の最高神のアフラ・マズダのレリーフも見られます。

クセルクセス門

クセルクセス門/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

「万国の門」とも呼ばれる壮麗な門。入口には人面有獣神像が左右に並び、柱のは高さ16m以上。クセルクセス1世によって築かれ、クセルクスの名前が3つの言語で刻まれています。

タチャラ

タチャラ/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

クセルクス1世の宮殿だった場所で、かなり強固に作られていたためか、ここはアレクサンドロス大王の破壊を免れた場所の一つ。入口の門には有名なライオンやペルシャの兵士が描かれたレリーフが残ります。

ペルセポリスはどんな理由で世界遺産に登録されているの?

アパダーナ(謁見の間)/ペルセポリス
画像素材:shutterstock

ペルセポリスが評価されたのが、以下の点。

登録基準(i)
ペルセポリスの基壇には壮大な建築物が並ぶ傑作であるということ。

登録基準(iii)
この壮大な遺跡は、古代オリエント世界において、独自で他に同等のものがない建築物の集合体であったということを示すという点。

登録基準(vi)
ペルセポリスはアケメネス朝の王権の象徴であり、各国の朝見団が訪れ、国の繁栄などを願う儀礼などが行われた都市であったということ。

世界遺産マニアの結論と感想

ペルセポリスは首都と扱っていいかどうかは分かれるところですが、アケメネス朝にとっては重要な都市であり、権力のシンボル。そして、各国から物資や人材が集まり、壮麗な建造物が作られ、儀礼などが行われていたという点が評価されています。

ちなみに、ダレイオス1世とクセルクセス1世、アルタクセルクセス1世はペルセポリスの北にある、ナクシェ・ロスタムという場所で眠っています。どんな豪華な都よりもここを墓所としたということは、やはりペルシャ人にとってはペルセポリスは重要な聖地であったのでしょう。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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