ロレンツォ・デ・メディチ(1449年〜1492年)は、フィレンツェのルネサンス期の銀行家であり、メディチ家の当主として芸術や文化を支援しました。彼は「豪華王」と呼ばれ、メディチ家の最盛期を築いた人物でもあります。ロレンツォ・デ・メディチとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はロレンツォ・デ・メディチがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ロレンツォ・デ・メディチについて具体的に理解できること間違いなし!
ロレンツォ・デ・メディチとはどんな人物?

彼はフィレンツェで銀行業で成功したコジモ・デ・メディチ(1389〜1464年)の孫であり、幼少時からメディチ家の当主となるべく教育を受けていて、1469年に20歳でメディチ家当主となり、フィレンツェの最高権力者に。1478年に敵対するパッツィ家による暗殺未遂事件が発生(パッツィ家の陰謀)。弟のジュリアーノは暗殺されましたが、ロレンツォは生き延び、事件後に権力を強化。
その後、イタリアのバランサーとして「豪華王」として活躍するも、銀行業は不振で最終的にはフィレンツェ公国の資金まで手をつけるほどでした。1492年にロレンツォが若くして死去すると、メディチ家の影響力は徐々に弱まり、やがてフィレンツェから追放されることになりました。
彼は芸術家や人文主義者のパトロンとしても有名で、レオナルド・ダ・ヴィンチやボッティチェリなど、多くの芸術家を支援。そして、若きミケランジェロの才能を見出し、彼の家に住まわせたことでも有名です。そして、プラトン哲学を研究するフィチーノなどの学者も保護し、フィレンツェをルネサンス文化の中心地へと導きました。
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サンタ・クローチェ聖堂/イタリア



フィレンツェ旧市街から南東の位置し、かつては市壁の外にあり、このあたりはかつてアルノ川が二手に分かれていた時代には中洲にあたる場所でした。ここは。13世紀建造のゴシック様式の聖堂で、ミケランジェロやガリレオ、マキャヴェッリなど、有名な芸術家や科学者の埋葬地となっていることでも有名です。
ここはロレンツォが成人した祝典として馬上槍試合を行ったことでも知られる場所です。
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サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)/イタリア



聖堂は街の中心部に位置してして、フィレンツェのシンボル的存在。その名は「花の(聖母)マリア」という意味で、まさに芸術の街にふさわしい壮麗な建造物でもあります。1296年に着工し、140年もの歳月をかけて完成。
ためら1478年にパッツィ家による暗殺未遂事件が発生した場所がここで、弟のジュリアーノは暗殺されてしまっため、ロレンツォにとっては悲しみの場所ではありましたが、その後の人生を大いに変えた場所でもあります。
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世界遺産マニアの結論と感想
ロレンツォ・デ・メディチの時代のメディチ銀行は資金が枯渇してきたものの、当主としての手腕で乗り越え、文化・芸術の庇護者としてルネサンスの最盛期を支えました。彼がパトロンとして多くの芸術家を支えなければ、偉大な芸術作品の多くが生まれなかったかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。