ヌルハチ(1559〜1626年)は、後金(1616〜1636年、後の清王朝)の創始者であり、ハン(王)。彼は中国東北部に点在していた女真(じょしん)族を統一し、独自の国家を築き、後の清朝の中国統一の基盤を築いた人物。そんなヌルハチとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はヌルハチがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ヌルハチについて具体的に理解できること間違いなし!
ヌルハチ(努爾哈赤)とはどんな人物?

1559年に建州女真(女真族の一派)のアイシン・ギョロ・ハラ(愛新覚羅)氏の家系に生まれます。祖父と父は、当時中国を支配していた明(みん)王朝に仕えていたものの、敵対する女真族の一派(クスフ・ビラ部)との戦闘中に二人とも殺害されてしまいました。ヌルハチは復讐を誓い、わずかな手勢を率いて勢力を拡大していきます。
1558年ころまでには建州女真を統一し、今度は女真の他の部族(海西女真、野人女真など)を次々に制圧していき、1616年までには一部を除いて女真族を統一。



1616年には国号を「後金(こうきん)」とし、自ら「ハン(汗)」の称号を名乗ります。彼は「八旗制度(はっきせいど)」を確立し、すべての女真人を八つの軍団(旗)に編成し、これは軍事・行政の基盤として後世まで清の伝統となりました。
1618年にヌルハチは、明が女真に対して不当な扱いをしてきたという「七大恨」という文書を発表し、明(みん)王朝との戦争を宣言。1621年に遼東地方(現在の中国遼寧省)を攻略し、遼陽を首都とします。1625年には瀋陽(しんよう)へ遷都し、勢力を拡大。しかし、1626年に明との戦い(寧遠の戦い)で、袁崇煥(えんすうかん)率いる明軍に敗北し、その戦傷が原因で死去します。その後、息子のホンタイジ(皇太極)が後継者となり、後金を引き継ぎます。
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瀋陽故宮(瀋陽故宮博物院)/中国



中国の東北部・遼寧省の瀋陽市に残る、清王朝時代の離宮。ここは清の前身である後金時代の皇宮だった場所で、太祖であるヌルハチと次代のホンタイジがおもに建造したもの。
建造物そのものは1626年に設立され、1636年に完成しました。敷地は6万平方kmと、北京の皇宮の12分の1とかなり小規模。後に中国大陸を征服し、清が成立すると、ここは離宮として使用されました。
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清福陵/中国



明と清の時代、1368年から1912年まで、歴代の皇帝やその家族が亡くなると豪華な陵墓が建造されました。2004年に遼寧省の清永陵(後金のヌルハチの先祖4代)、清福陵(後金のヌルハチ)、清昭陵(後金のホンタイジ)が登録。
清福陵は瀋陽市渾南区天柱山にあります。ここはヌルハチと妻であり、ホンタイジの生母であるイェヘナラ氏(孝慈高皇后)の陵墓。ヌルハチの死後、1629年に建造され、もともとは保存状態が悪かったものの、現在は「東陵公園」として一般公開されています。
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世界遺産マニアの結論と感想
ヌルハチはもともとは一部族の長ではありましたが、そのリーダーシップと政治センスによって後の国家となる清の基盤を作りました。彼の軍事・社会組織による国家形成がなれば、清王朝の中国統一はなかったかもしれませんね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。