ティムール(1336〜1405年)は、チャガタイ・ハン国の出身の軍人で、西アジアから中央アジアまでを領土とした広大なティムール朝(1370〜1507年)を建国した人物。彼はチンギス・ハンの後継者を自称したほど。そんなティムールとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はティムールがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ティムールについて具体的に理解できること間違いなし!
ティムールとはどんな人物?
征服事業によって「ティムール帝国」を建国

1336年にキシュ(現在のウズベキスタン・シャフリサブズ)郊外の村で、モンゴル系とテュルク系の混血ではありましたが、貴族の息子として生まれます。若い頃から武勇に優れ、名声があり、カリスマ的な人気を誇っていました。1360年代になると、かつてのモンゴル帝国の一部であったチャガタイ・ハン国(1225〜1340年)の権力争いに関与し、サマルカンドを拠点に勢力を拡大。
1370年にチャガタイ・ハン国を事実上支配し、サマルカンドを首都としてティムール朝を建国。ティムールは軍事力を駆使し、1380年代には中央アジア、1390年代には中東やイラン、ロシア南部、1400年代にはアナトリア(現在のトルコ)に至るまで広大な領域を征服しました。
彼はチンギス・ハンの直系ではなかったため、正式な「ハーン」にはなれず、代わりに「アミール(司令官)」の称号を用いましたが、かつてのモンゴル帝国の最大領土には至らないものの、西アジアのほとんどを征服したという点では、偉大な人物でもありました。
サマルカンドの発展



彼の人生はほとんどが征服事業に費やしていましたが、その傍らティムール朝の首都であるサマルカンドをイスラム世界の文化・学問の中心都市として整備したことでも有名です。
彼は征服した場所から技術者・学者を連れてきたことで、サマルカンドには壮大なモスクや宮殿、学校などが作られていきました。ティムールは征服の際は残虐行為を行ったエピソードがある恐ろしいイメージがありつつも、各地の歴史についても興味を持ち、文化や学問を重視する統治者でもあったのです。
ティムールの死と帝国の末路



1397年ころよりティムールは現在の中国に存在していた明朝への遠征を計画し、1404年にはシルクロードを進軍。しかし、1405年に遠征途中のオトラル(現在のカザフスタン)で病死してしまいます。彼の故郷であるキシュまでの道は雪で閉ざされてしまったためにサマルカンドにて埋葬。
ティムールの死後、帝国は彼の子孫によって継承されましたが、15世紀末にはウズベク族の侵攻を受け、滅亡してしまいます。
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シャフリサブス歴史地区/ウズベキスタン



ウズベキスタン南東部にあるシャフリサブスは、かつてはキシュ(「心休まる場所」という意味)と呼ばれ、シルクロードで繁栄した都市。2000年以上の歴史を持ち、この地方の中心都市でした。ここはティムールの生まれ故郷(正確には近郊の村)としても有名。
ここは首都サマルカンドに匹敵するほどに美しい建造物が多く築かれましたが、16世紀にブハラ・ハン国のアブドゥール・ハンによって破壊されたため、現在は遺構のみが残っています。
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ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟/カザフスタン



カザフスタン南部のテュルキスタンはかつてはヤシと呼ばれた都市。ここはホージャ・アフマド・ヤサヴィー(1103〜1166年)の廟があり、この地への巡礼は中央アジアでは聖地メッカへの巡礼に次ぐというほどの聖地で毎年数万人が訪れるというほど。
ティムールはこの地を支配する際に周囲の遊牧民を考慮して、1389〜1405年にかけて聖廟とモスクが大改装しました。
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ビービー・ハーヌム・モスク/ウズベキスタン



ウズベキスタンの中央部、ゼラフシャン川の渓谷にあるオアシス都市であるサマルカンド。現在の旧市街はティムールが14〜15世紀に新たに都を建造した際に築かれたもの。
ビービー・ハーヌム・モスクは1404年にティムールによって建造された、中央アジア最大級のモスク。四隅にミナレットが作られ、礼拝所が2つも置かれた豪華なモスクでした。しかし、ティムールの死後に廃墟となり、19世紀にはほぼ崩壊。1974年から再建が始まり、現在見られるのは再建されたものがほとんど。
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グーリ・アミール廟/ウズベキスタン



1404年に完成したティムールの霊廟。実際はティムールが存命中に、彼の孫であるムハンマド・スルタンのために建造したものですが、1405年に遠征の途中で急死したため、ここに埋められました。
廟の内部は修復され、金箔を3kgを使用し、当時の雰囲気を取り戻しています。入口のイーワーン(天井がアーチ状となっているホール)とドーム状の廟で構成。
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世界遺産マニアの結論と感想
ティムールは残虐な征服者であり、イスラム世界では恐れられましたが、それと同時に文化・学芸を発展させた偉大な統治者でした。サマルカンドで見られる建築様式はその後のティムール朝だけではなく、子孫によって築かれたムガル帝国にも受け継がれ、中央アジアからインドに至る広大な地域に影響を与えたのです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。