登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1),(2),(4) |
登録年 | 2001年 |
グーリ・アミール廟は「サマルカンド‐文化交差路」の構成遺産の一つ。ここはかつて中央アジアから西アジアにかけて大帝国を築いたティムールの霊廟であり、サマルカンドでも重要な建造物でもあります。ところで、グーリ・アミール廟はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここではグーリ・アミール廟がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、グーリ・アミール廟について詳しくなること間違いなし!
グーリ・アミール廟とは?
旧市街の中心部・レギスタン広場の南側に位置し、グーリ・アミールはペルシア語で「王の墓」を意味するもの。その名の通り、ここは1404年に完成したティムール(1336〜1405年)のための霊廟であり、ティムール朝時代の王族や関係者の霊廟でもありました。
彼は1405年に遠征の途中で急死したため、ここに埋められました。現在の廟は1404年に彼の最愛の孫であったムハンマド・スルターンのための建造されたものですが、彼の故郷であるシャフリサブスまでの道は雪で閉ざされてしまったためにこの地で埋葬されたという経緯があります。
入口のイーワーン(天井がアーチ状となっているホール)とドーム状の廟で構成されています。特にドームは八角形の母屋の上に高さ37 mの二重ドームが建造され、上下に溝が彫られているのが特徴。外装は青と淡青、城のテラコッタ製のタイルが組み合わされた美しいもの。
廟の内部はティムールだけでなく、彼の子どもたちや孫でもあるティムール朝の第4代ウルグ・ベク(1394〜1449年)、さらにはティムールの師匠もここで眠っています。
大広間は、一枚岩のメノウが使用され、上部はムカルナス(鍾乳石に似せたデザイン)で鮮やな装飾が特徴的。ここは1996年に修復され、金箔を3kgも使用し、当時の雰囲気を取り戻しています。黒緑色の墓石は、実際は墓ではなく、ティムールの墓の位置を示しているだけであって、地下室にある本物の墓は入場不可。
グーリ・アミール廟はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
グーリ・アミール廟が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
文化の交差路であったサマルカンドの建築物と町並みは、イスラム建築の傑作であるという点。
登録基準(ii)
サマルカンドの建造物は、地中海からインドまで各地のイスラム建築に影響を与えていたということ。
登録基準(iv)
サマルカンドの旧市街に見られる建築物や都市構造などは、13世紀から現在まで、中央アジアの文化が発展するまでの重要な段階を示しているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
グーリ・アミール廟は、結果的にティムールの霊廟となり、ティムール朝の王家の重要な霊廟であったために、イスラム建築の傑作であり、これは後に彼らの子孫たちがインドで建造していった、タージ・マハルなどのムガル帝国の建造物へと繋がるという点で評価されています。
ちなみに、1740年にイランのアフシャール朝のナーディル・シャーによって彼の石棺が持ち出されそうになるものの、アフシャール朝はすぐに滅亡したので、石棺はそのままにされました。1941年にソビエト連邦の調査隊によって墓が開けられますが、棺には「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていて、実際に棺を開けたら、ソビエト連邦にはナチス・ドイツが攻め込んできたりと、恐ろしい出来事が発生。そのために、ソビエトの調査隊はティムールの遺体を丁重に葬礼して埋葬したそう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。