玄奘三蔵は『西遊記』の登場人物・三蔵法師のモデルとなった人物として有名。実際に彼は唐(618〜907年)の時代の僧で、仏教の経典を求め、中央アジア経由でインドへと旅をしたということで知られます。そんな玄奘三蔵はどういった人物だったのでしょうか?
今回は玄奘三蔵(三蔵法師)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、について具体的に理解できること間違いなし!
玄奘三蔵(三蔵法師)とはどんな人物?
「三蔵法師」とは?彼は本当に存在したの?

「三蔵法師」というと、中国の小説『西遊記』の登場人物であるというのはあまりにも有名で、唐の時代の真面目なお坊さん…というイメージはありますよね?実は彼は実在する人物。といってもあくまでも「モデル」ではあり、その人物こそが玄奘(げんじょう、602〜664年)と呼ばれた僧。
そして、「三蔵法師」と名付けられた僧は彼だけではなく、多くの人物がいます。そもそも三蔵とは、仏教の経典の分類であり、経蔵(釈迦の教えを記した経典)、律蔵(僧侶が守るべき戒律)、論蔵(経典の解釈や教義の説明をまとめたもの)を指し、三蔵法師はこれらの3つの教えを深く理解した僧に対して皇帝から与えられる尊称。玄奘はその中でも最も有名な「三蔵法師」であるため、現在では三蔵法師=玄奘を示すことが多いですね。
『大唐西域記』で記された天竺までのルートは?



玄奘の本名は陳褘(ちんい)で、玄奘は字(成人した男子に付けられるもう一つの名前)でもあります。彼は現在の洛陽に近い豫州(よしゅう、現在の河南省洛陽市)で生まれ、幼い頃から仏教に興味を持ち、13歳で出家しました。彼は中国国内の寺院を巡り、経典の研究をしていましたが、当時中国に伝わった経典や論書を読むものの、それらに不完全さを感じ、インドへ直接学びに行くことを決意します。
当時の唐では国民の海外渡航は禁止されていましたが、629年に密かに出国し、陸路で天竺(現在のインド)へ向かいました。まず、隣国の高昌(こうしょう)という国に立ち寄り、援助を受けると、シルクロードを商人たちとともに移動し、中央アジアを経由して険しいヒンドゥークシュ山脈などの厳しい環境を越え、インドに至ります。
インドでは、当時の仏教の中心地であるナーランダー僧院で長らく学び、多くの経典を中国に持ち帰ることを決意します。そして、長安へと戻り、約17年にわたる彼の旅はここで終了しました。
彼の旅は『大唐西域記』にまとめられ…やがて『西遊記』へ



当時の皇帝・太宗(598〜649年)は彼の偉業を評価したため、唐への帰国は許されました。一方、太宗は彼を許す代わりに現地で見聞きした「情報」をまとめるように命令します。そして、彼はインドや中央アジアの28か国の地理や民族、文化、政治などを詳細に記録した『大唐西域記』を執筆。
やがて彼の偉業は後の中国で伝説となっていきます。南宋(1127〜1279年)の時代になると、各都市で講談や劇などで、この伝説が変化していき、猿にまつわる伝説と混じって14世紀になると現在の『西遊記』大枠の話が完成。そして、16世紀後半に我々が良く知る、孫悟空が主人公の小説『西遊記』の原型が作られました。
三蔵法師は何を持ち帰ったの?



『西遊記』では、天竺から経典を持ち帰るというのが旅の目的でしたが、実際に玄奘が現地を訪れたのは経典を多く持ち帰るためでもありました。彼の伝記によると、持ち帰った経典は600冊以上はあったとされます。
そして、中国で帰国すると彼はその経典の翻訳を始めます。しかし、彼が亡くなるまで経典の3分の1しか訳せなかったものの、それまで中国で翻訳された経典よりも正確であったために、そういった点でも彼は偉大でもありました。その中でも『大般若経(だいはんにゃきょう、大般若波羅蜜多経)』は日本でも有名ですが、これは彼が訳したもので、現在でも日本国内の寺院に保存されていますね。
つまり、彼によって「インドから発展した仏教を正しく伝えること」に成功したといったところでしょうか。
玄奘三蔵(三蔵法師)にまつわる世界遺産はこちら!
高昌故城/中国



ウイグル自治区のトルファン市の郊外に位置する都市遺跡。ここはかつて高昌(460〜640年)と呼ばれるオアシス国家の跡地でした。
玄奘は唐から出国した後はこの地で過ごし、国王である麴文泰(きくぶんたい、在位624〜640年)に気に入られ、王は彼を留めようとするも、結局インドへと向かうことになります。そして、金銭を援助し、王からの保護と援助を求める文書を与えられ、旅を続けました。
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バーミヤン渓谷/アフガニスタン



アフガニスタン中央部のヒンドゥークシュ山脈に囲まれたバーミヤン渓谷。断崖には、2001年にタリバンによって破壊された2つの巨大な仏像や壁画などが洞窟内にありました(現在はほとんど破壊されています)。
1世紀ころから石窟仏教寺院が作られ、ここではインドやギリシャ、ペルシアなどの文化が融合してガンダーラ美術と呼ばれる独自の仏教美術が形成された過程がよく分かります。玄奘三蔵もこの地を訪れて深く感銘したと伝わるほど。
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アフラシヤブの丘/ウズベキスタン



ウズベキスタンの中央部、ゼラフシャン川の渓谷にあるオアシス都市であるサマルカンドは、ウズベキスタンでも最古の歴史を持つ居住地であり、シルクロードで栄えた、文明の交差地であった場所。
アフラシヤブの丘は、紀元前7世紀に築かれたソグド人によって築かれた都市遺跡。かつては交易で栄え、玄奘三蔵も訪れ、街の美しさを称賛しました。しかし、13世紀にチンギス・ハンによって破壊され、現在は遺構のみ残存。
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ナーランダー・マハーヴィハーラ考古遺跡(ナーランダー僧院)/インド



インド北東部に位置するビハール州の南部にあるナーランダー。ここにはかつてインド最古の大学として知られるナーランダー僧院があった場所。「マハーヴィハーラ」とは「偉大な精舎(大僧院)」の意味で、紀元前3世紀から紀元13世紀まで運営されていた全寮制の大学でもありました。
7世紀には、はるか北方の中国からも多くの巡礼者がここを訪れ、玄奘三蔵もこの地を訪れて学びました。彼はここから657部の経典を中国に持ち帰ります。
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西安/中国



「大雁塔」は、長安城の南東部にあり、玄奘がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために建造した塔。7世紀に建造されたものではありますが、現在見られるものは16世紀に修復工事されたもの。各階に、釈迦の遺骨を納めたとされる仏舎利が保管されています。
「興教寺塔」は西安の南に位置する仏教寺院内に立つ五層の舎利塔。これは7世紀に玄奘三蔵の遺骨を保管するために建造されたものの、唐時代の末期である9世紀に塔が破壊され、三蔵の遺骨は今でも行方不明です。
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世界遺産マニアの結論と感想
玄奘三蔵は、インドから仏教の多くの経典を持ち帰り、それを翻訳したことから、仏教の発展に大きな影響を与えました。一方、当時のインド・中央アジアの記録『大唐西域記』 を執筆したことから、唐の政治にも大きく貢献し、彼の旅は『西遊記』のモデルとなるほどに偉大なる冒険として後世へと語り継がれています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。