始皇帝の父親は誰?候補を踏まえて世界遺産マニアが考察

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中国史上初めて天下統一を成し遂げた、秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)。彼も当然人の子であり、父親はもちろん、先代の父親「荘襄王」であると考えられますが…実は怪しい人物もいるのです。研究者によってさまざまではあるものの、その候補者を含めて現段階での結論を世界遺産マニアが考察してみました。

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公式には、始皇帝の父親「荘襄王」とされている

秦の兵馬俑
画像素材:shutterstock
※写真はイメージです

始皇帝は秦の第5代・荘襄王(そうじょうおう、紀元前281年〜紀元247年)の王子であり、本名(姓・諱)は嬴異人(えいいじん)。彼は秦(紀元前905年〜紀元前206年)の王子であったものの、敵国であった趙(現在の中国・河北省を中心とした国)で人質となっています。その身分を利用しようとした商人の呂不韋が出資をすると、紀元前259年には、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に子供を授かりました。それが始皇帝と呼ばれる人物となった嬴政です。

呂不韋は王太后であった華陽太后(かようたいごう)に気に入られ、紀元前258年に異人は先代の王の死とともに国へ戻り、彼は荘襄王として即位。荘襄王は紀元前249年に即位しましたが、わずか3年後(紀元前247年)に亡くなりました。彼の死後、当時13歳だった嬴政(後の始皇帝)が秦王として即位します。とはいえ、実質的な権力は呂不韋が握っていたとされています。

実は本当の父親は呂不韋であるという噂も

秦の兵馬俑
画像素材:shutterstock
※写真はイメージです

漢の時代の歴史書『史記』には「始皇帝は異人の子ではない」と記され、後の『漢書』にも「始皇帝の本当の父親は呂不韋である」と記されてあるものの、呂不韋と政との関係を示す確実な証拠はありません。

とはいえ、異人(荘襄王)は趙で長く人質生活をしており、身分も低い呂不韋が異人に接近した理由は、彼を秦の王位に押し上げるために支援するためであると考えられます。呂不韋の愛人だった趙姫を異人に紹介し、彼女が政を身ごもりました。しかし、呂不韋と愛人関係であった趙姫はすでに呂不韋の子を妊娠していた可能性がある…というのも否定はできません。

世界遺産マニアの結論と感想

父親については呂不韋の説があるものの、他の歴史書にはそのように記されていないことから疑問点も多く、歴史的な証拠はありません。そのため、公式な記録では始皇帝の父は、あくまでも荘襄王とされています。漫画『キングダム』でも、呂不韋が「(政と)親子二代で秦を乗っ取ってしまう」という冗談を言う場面もありますが、これはそういった説もあるためにあえて発したセリフ。しかし、状況的には政が呂不韋の隠し子であってもおかしくはないのですが、真実を知る誰もが既に死去しているので、どちらにせよ、闇に葬り去れたままではありますけどね。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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