登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3) |
登録年 | 1981年 |
パキスタン南部にあるタッターは、インダス川の湾口都市でシンド地方の中心都市でもありました。ここは14〜18世紀にかけて地方王朝の首都であった場所で、インドを支配したムガル帝国に支配されたこともありましたが、18世紀にペルシャ(現在のイラン)のアフシャール朝に滅ぼされます。登録エリアにはムガル皇帝のシャー・ジャハーンが建造したモスクや、イスラム世界の最大の墓地であるマクリの丘などの文化財が今でも残存。
ここではタッターの文化財がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、タッターについて詳しくなること間違いなし!
タッターの文化財とは?
パキスタン南部のシンド州。シンドとは、古サンスクリットで「海や河」などを示していて、パキスタンを貫くインダス川の三角州の手前にあるタッターは、かつてのシンドの中心地として繁栄。特に14世紀から18世紀にかけて、サンマー朝、アルハン朝、ダルハーン朝の首都が置かれ、現在のインドを中心としたムガル帝国にも支配されたものの、18世紀にペルシャ(現在のイラン)の王ナーディル・シャーによって破壊されてしまいまい、町は放棄。
ここには1659年に完成したシャー・ジャハーン・モスクが現在でも現存しています。ここはタージ・マハルを建造した、ムガル帝国の5代皇帝であるシャー・ジャハーンの治世に建造を指示されたもの。青をベースにした彩釉タイルと彩釉レンガで建造した金曜モスクで知られます。
マクリの丘
タッターの町の郊外にある6.5kmにも渡るネクロポリス。ここは王族だけでなく、女王や総督、聖人、学者、哲学者などを含めて50〜100万もの墳墓が建造された、イスラム世界最大規模の墓地でもあります。墓はヒンドゥー教のグジュラート様式とイスラム教の建築様式が融合したものが多く、レンガや石で建造した墓標が続きますが、中には青いタイルを使用した壮麗な霊廟も現存。
タッターの文化財はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
タッターが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
タッターとマクリの丘にある文化財は、遺跡の保存状態も良く、14〜18世紀にかけてシンド州で発展した文明を証明するものであるという点。
世界遺産マニアの結論と感想
タッターとマクリの丘に残る文化財は保存状態も良く、当時のインダス川の湾口都市として発展したシンド州の文明の存在を証明するというもの。
ちなみに、シャー・ジャハーン・モスクは、シャープ・ジャハーンがかつてこの地でかくまってもらったお礼として、壮麗なモスクの建造を指示したのですが、彼は息子によって廃位、幽閉されて死亡したため、1659年に完成した自分の名前が付けられたモスクへは行くことができませんでした。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。