登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1),(2),(3),(4) |
登録年 | 1986年 |
トルコ中央部のボアズカレ村の近郊には、紀元前17世紀〜紀元前13世紀に栄えたヒッタイト王国のかつての首都であったハットゥシャの遺跡があります。かつての王宮や神殿の他に、壮麗な門の装飾、王国の繁栄を偲ばせるレリーフも残存。そして、ハットゥシャの文化は現在のトルコやシリア北部にあった都市に影響を与えたという点で評価されています。
ここでは、ヒッタイトの首都ハットゥシャがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ハットゥシャについて詳しくなること間違いなし!
ヒッタイトの首都ハットゥシャ(遺跡)とは?ヒッタイト王国について解説
実は鉄を発明した国ではない?
現在のトルコの大部分を占めるアナトリア半島の中央部。チョルム県のボアズカレ郊外の丘陵地帯にハットゥシャの遺跡があります。ヒッタイト王国は紀元前17〜13世紀にアナトリア半島を中心に栄えた国で、教科書では製鉄技術を持っていた国とされてきましたが、現在ではヒッタイト以前に製鉄技術を持っていた文明もあり、ヒッタイトについては鉄器を使った軽戦車(チャリオット)を初めて導入したという点で評価されています。
遺跡は、内側と外側に城壁があり、内側にはハットゥシャの市街地、内側と外側の城壁の間にはヤズルカヤの聖域、城壁外には東にカヤリボガズ、南にイビクサムの森などが登録されています。
ヒッタイトが滅亡した理由は?
紀元前12世紀に「海の民」と呼ばれる民族によって首都ハットゥシャが滅ぼされて崩壊したというのが一般的。これは諸説あり、地震説や飢饉説などがあります。いずれにせよ、この地は紀元前800年頃までには放棄されたとされ、特に再利用されたこともなく、現在は遺構だけ残されました。
登録されている主な構成資産
ハットゥシャ
内側の城壁の内部に広がる市街地。都市部が2つに分かれており、上部の都市跡には西に獅子の門、東に王の門、南にスフィンクス門などが残っています。スフィンクス門には、アーチ型の地下道が残存。他にも王宮、神殿など、当時の繁栄を偲ばせます。
そして、下部にある神殿跡は、保存状態も良好。ここでは楔形文字で刻まれた粘土板が多く見つかり、ヒッタイトとエジプトとの戦争「カデシュの戦い」の後に結ばれた世界最古の講話条約の粘土板も発見されました。これは現在はイスタンブールの考古学博物館に展示されています。
ヤズルカヤ
市街地から北東へ約2km。ここは岩に囲まれた聖域で、いくつかのレリーフが刻まれています。ここには、紀元前13世紀に刻まれたトゥドハリヤ4世のレリーフと、シュッピルリウマ2世のレリーフが残ります。ここには、神々や女神、カルトゥーシュ(王の名前)など、描かれており、神聖な儀式が行われた可能性がありますが、他にも霊廟として使用された説など、さまざまな説があり、はっきりとはわかっていません。
ヒッタイトの首都ハットゥシャ(遺跡)はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
ハットゥシャが評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
獅子の門や王の門、ヤズルカヤのレリーフなどは、古代の芸術品であるという点。
登録基準(ii)
ヒッタイトの文化は現在のトルコやシリア北部にあった文明に影響を与えたということ。
登録基準(iii)
ハットゥシャに残る宮殿や神殿、ネクロポリスなどは、ヒッタイト文明が存在したという証明であるという点。
登録基準(iv)
遺跡に残る宮殿や神殿、要塞などは保存状態がかなり良好であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
エジプトと同じようにアナトリアに大帝国を築いたヒッタイトの繁栄が残るのが、ハットゥシャの遺跡であるということです。現在は丘陵地帯となっており、その上に街が築かれなかったために、保存状態も良好。そして、ヒッタイトの帝国は滅んでもヒッタイトの文化はアナトリアやシリア北部に引き継がれていったという点でも評価。
ちなみに『天は赤い河のほとり』という有名な少女漫画がありますが、主人公がタイムワープしたのが、このハットゥシャ。お相手はムルシリ2世で、彼はヒッタイトの最盛期を築いた王。現在でも彼の姿は確認できないのですが、門に残る神を表したというレリーフは彼の姿であったという説もあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。