登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (1), (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 1987年 |
「万里の長城」とは、中国の北方に位置し、その長さはなんと2万km以上。紀元前3世紀に、秦の始皇帝(紀元前259年〜紀元前210年)によって、北からの遊牧民族からの侵攻を防ぐため、もともと点在していた長城を組み合わせて建造されたもの。やがて世界最大の長城になったのは、明の時代(1368〜1644年)。長城の歴史は中国の歴史ともいえるほど重要な建築物でした。
ここでは、万里の長城がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、万里の長城について詳しくなること間違いなし!
万里の長城の長さは?全長何km?
どこからどこまでが万里の長城なの?
万里の長城は、明の時代に整備された「本線」としては、東は河北省の「山海関(さんかいかん)」から始まり、西は甘粛省の「嘉峪関(かよくかん)」まで続く、全長2万kmを超える城壁のこと。これらは紀元前3世紀から17世紀まで、歴代の中国の王朝によって、整備・修復・拡大されてきた防衛システムです。
とはいえ、長城はすべて現存しておらず、途中には崩壊してしまった部分もあります。現在見られる人工壁をすべてつなげると合計で6259.6km。
万里の長城の端はどこ?
万里の長城の「本線」としての最東端は「山海関」から延びた老龍頭ではあるものの、さらに東には「虎山長城(こざんちょうじょう)」という「支線」も築かれていて、これは15世紀に明の時代に築かれたものであることからここが2009年に中国政府は東端にしました。しかし、異説もあったりして、今でも万里の長城の「最東端」ははっきりとしないところでもあります。
明の時代に建造された長城として、「最西端」となると「嘉峪関」が最も西に位置します。それ以前の漢の時代の長城は、もっと西にある「玉門関(ぎょくもんかん)」であり、さらに古い遺構も西側で発見されていて、こちらもはっきりしないところ。
万里の長城の建設の目的は?その歴史を解説
万里の長城が造られた理由は?何のために建造したの?
なぜ長城が築かれ続けたのか、それは古代中国の豊かな土地を狙って、北の遊牧民族が度々侵入してきたという背景がありました。長城はもともと春秋時代(紀元前700〜紀元前403年)に建造が始まり、戦国時代(紀元前403〜紀元前220年)になると、防御壁として各地に長城が築かれます。そして、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝が、各国が築いた長城を一つに繋げて、北に拠点を持つ遊牧民族・匈奴に備えるための防御壁にしたのが万里の長城の始まり。しかし、この長城は現在のものではなく、現在よりも北に位置していたとされています。
前漢の武帝(紀元前141〜87年)の時代になると、長城は西の敦煌まで延び、放棄と再建を繰り返していきました。明の時代(1368〜1644年)になると、北方のモンゴル民族に備えて、長城を強化する必要があり、この時代になると長城は現在のように、河北省の山海関から甘粛省の嘉峪関まで繋がる巨大な長城になります。
万里の長城が完成するまでに何年かかった?
一般的には紀元前3世紀から17世紀と、2000年に渡って建造されたとされています。「長城」というものを建造したのは、春秋時代にまで遡り、戦国時代になると各地で防衛のために長城が建設されていきます。しかし、現在のように「万里の長城」を一体化したのは、始皇帝であるため、その始まりは3世紀であり、明時代の末期まで整備され続けたために終わりは17世紀とされるもの。
しかし、その次に中国を支配する清(1616〜1812年)は北方民族の女真族だったたえめに、長城は全く整備せずに放棄されました。結局、長城が評価され、整備されるようになったのは1949年に中華人民共和国が成立してから。
万里の長城を作った人は誰?始皇帝が有名だけど…李牧なども関わってた?
あくまでも「万里の長城」として、全体を繋げて整備をしたことから、一般的には始皇帝が「建造者」であるといえます。彼は年に中国を統一したものの、北方には遊牧民族が備えていたために、各地に築かれた長城をすべて繋げました。しかし、この時代の長城はほとんどの区間は高さ2m程度の城壁であり、馬や人が乗り越えるのが難しい程度の簡易的な長城でした。一方、規模はどの時代の長城よりも広大で、西は甘粛省、東端は現在の北朝鮮まで延びていたというほど。
さらには、原泰久氏原作の『キングタム』で人気キャラクターである軍師・李牧(生年不詳〜紀元前229年)も、趙(現在の山西省北部と河北省南東部)の長城を整備した人物の一人として有名。
万里の長城の高さは?どんな特徴がある?
長城沿いには明の時代の建造物が現在も残っていて、この時代のものはレンガや石灰が使われていたために、堅固な城壁でした。城壁の高さは平均で約8m、幅は平均4.5m。長城は人や馬が移動できるようになっていて、防衛の拠点であった開城、見張り台として機能した敵台などで、構成されていました。堅固な軍事施設ではありましたが、実際は長城を挟んで異民族同士の交易や文化交流などが行われていた様子。
登録されている主な構成資産
全長2万kmを超える城壁ではありますが、世界遺産に登録されているのは合計で21.5平方kmのエリアのみ。
山海関エリア
万里の長城の東端にあたるエリアで、現在では河北省秦皇島市にあたる場所。14世紀末に明の将軍、徐達が整備した軍事拠点。城壁の最も東端にあたる「老龍頭」は海に突き出ており、比較的保存状態が良いことで知られます。
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八達嶺長城エリア
北京の北西約70kmに残る長城で、「万里の長城」と呼ばれる風景は大体ここの写真を使用しています。現在の遺構は明の時代に建造され、アクセスの良さから観光客が多く集まります。他にも北京から北へ約90kmの位置にある「慕田峪長城」も明の時代のもので、こちらも保存状態は良好。
嘉峪関エリア
万里の長城の西端に位置するエリアで、現在は甘粛省嘉峪関市に位置する関所。ここはシルクロードで栄えた都市でもあります。嘉峪関は万里の長城と繋がっており、大きな楼閣が築かれた城門が建設当時のまま残っています。
万里の長城はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
万里の長城が評価されたのが、以下の点。
登録基準(i)
宇宙からも確認できるほどに広大な万里の長城は、自然の地形を利用した偉大な建築物であるという点。
登録基準(ii)
中国北方で万里の長城を建設することによって、中国人の居住地が拡大していったということ。
登録基準(iii)
保存状態の良い嘉峪関や明の時代の城壁部分などは、万里の長城が長年に渡って建造され続けていたということを証明しているという点。
登録基準(iv)
万里の長城は長年に渡って発展した防衛設備が見られる軍事建築のユニークな例であるということ。
登録基準(vi)
中国の詩や文学のテーマになるほど、万里の長城は異民族から中国を防衛するという重要なシンボルであったという点。
世界遺産マニアの結論と感想
万里の長城は、軍事建築として優れているということだけでなく、中国と異民族との戦いの歴史を垣間見ることができ、文化的なシンボルにもなっているという点で評価されています。
「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」とはされていますが、実際に宇宙飛行士が見てみたところ、視認では無理…ということで現在ではこのキャッチフレーズは使われないように。ただ宇宙からカメラで撮影して拡大するとその姿を確認することは可能です(当たり前といえば当たり前なのですが…)。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。