登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (4), (6) |
登録年 | 2012年 |
北京からは北へ約275km。現在は廃墟となっているこの遺跡は、1256年に元を設立したフビライ・ハンによって建設された上都があった場所でした。ここはモンゴル人の都ではありますが、中国の伝統的な風水理論によって計画された都市で、中国とモンゴルの文化が融合した都でもあったのです。敷地内には、寺院や宮殿、野営地、運河の跡など、残っています。
ここでは、上都の遺跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、上都の遺跡について詳しくなること間違いなし!
上都の遺跡とは?
万里の長城の先、モンゴル高原南部に位置する上都の遺跡は、かつて元を建国したフビライ・ハンが築いた都でした。ここは遊牧民であるモンゴル人と農耕民族である中国人の文化が融合した都市。やがてフビライ・ハンは中国全土を支配し、元を建国した際は首都となり、大都(現在の北京)へ遷都した後は夏の離宮として利用されるようになりました。この都はフビライ・ハンが劉秉忠という中国人の政治家に命令して作られた都市で、中国の伝統的な風水理論に基づいて建造されたもの。
上都は正方形のような形をしており、外城、内城、宮城という3つのエリアが点在。それぞれ城壁で囲まれていました。外城は市街地や寺院などがあり、内城は貴族の家々や邸宅で構成。内城には空き地もあり、ここでは遊牧民らしくゲルなども造設されていたと考えられています。市内には仏教寺院や道教寺院もありました。当時からモンゴル人はチベット仏教を信仰しており、ここから遊牧民を通じてアジアの東北部に伝道して行きました。
しかし、上都には都市としての問題点がありました。周囲に大きな川がないのでアクセスが悪く、都市として発展には限界があったため、次第に人口は減少。そして、明によって元が滅ぼされ、上都は放棄。それ以降はこの都市は使用されず、現在は草原の中に廃墟が佇む遺跡になりました。
上都の遺跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
上都が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
上都は、モンゴル人と漢民族の文化や生活様式が組み合わって計画された都市であったという点。
登録基準(iii)
ここはフビライ・ハンが戦争によって異民族の支配を重ね、モンゴル民族が征服した国の文化と融合したという証拠が残っているということ。
登録基準(iv)
上都の都市計画は、遊牧民と農耕文化の融合が見られ、遊牧民族のライフスタイルを取り入れた中国式の都市計画は、人類の歴史の重要な段階を示しているという点。
登録基準(vi)
13世紀に仏教と道教の間で論争が行われた地であり、その結果、北東アジアにチベット仏教が広まったきっかけになった都市であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
上都は今は廃墟ではありますが、かつてはモンゴル帝国の中国支配の拠点として栄え、中国とモンゴルの文化がフュージョンしたハイブリッドな都市でした。そして、ここからチベット仏教が遊牧民国家に広がっていったというのもポイント。
ちなみに、マルコ・ポーロが訪れたというザナドゥが上都とされていて、彼によるとザナドゥは「金で塗られた建物がたくさんある理想郷」だといいますが…果たして現実はどうだったのでしょうか?ちなみに、「黄金の国ジパング」はあまりにも誇大広告だったので、おそらくこれも誇大広告だと思いますが。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。