アメンホテプ4世(在位:紀元前1353年?〜紀元前1336年?)は、当時のアメン神信仰を否定して宗教改革を強行し、名前も「アクエンアテン」と改名したことから、古代エジプトでも壮絶な人生を歩んだ人物。彼の時代はエジプトが混乱した時期でもあったのですが、アメンホテプ4世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はアメンホテプ4世(アクエンアテン)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アメンホテプ4世について具体的に理解できること間違いなし!
アメンホテプ4世(アクエンアテン)とはどんな人物?
古代エジプト最大の宗教改革・アマルナ改革

アメンホテプ4世は、第18王朝(紀元前1570年頃〜紀元前1293年頃)のファラオであり、父である先代のアメンホテプ3世が亡くなっため、アメンホテプ4世として即位します。当時の第18王朝の時代は初期から、テーベ(現在のルクソール)の守護神であり、豊穣神であるアメン神の信仰が強く、国家神であったため、神官は絶大な力を持っていました。
それもあり、彼は即位すると神官たちを抑え、その宗教的権力を王権と一つにするために唯一神「アテン」を信仰する「一神教」(実際は他の神々を積極的に比定していなかったので「単一信教」という説も)を採用し、彼自身も「アクエンアテン(アテン神の有益な者)」と改名。
そして、テーベを放棄して、北に約400km離れたアマルナへと遷都。ここでは写実的な美術様式が発展し、王妃であったネフェルティティの胸像のような、芸術作品が多く建造され、古代エジプトの芸術の面まで革命が発生したのです。しかし、アメン神の神殿を破壊したり、アジアにおけるエジプトの領土を失うと国民から指示を失い、短期間で放棄されてしまいました。
ツタンカーメンの父親?



アクエンアテンの晩年は、彼の弟または息子であるスメンクカーラー(在位:紀元前1336年〜紀元前1334年)とともに共同統治したとされますが、二人は同時期に亡くなったとされ、その後、ファラオを引き継いだのが黄金のマスクで有名なツタンカーメン(在位:紀元前1334年〜紀元前1325年)。
しかし、幼少期であったために、実権は宰相のアイにあったとされていて、もともと彼の名前は「トゥトアンクアテン」という、アテン神が入った名前だったのですが、後にアメン神の再興を行ったために「トゥトアンクアメン(ツタンカーメン)」と改名。その後、アテン信仰は復活せず、彼の手によってアクエンアテンも「アメンホテプ4世」として王家の谷に再埋葬されました。
アメンホテプ4世(アクエンアテン)にまつわる世界遺産はこちら!
カルナック神殿



ルクソール市街から北へ約3kmにある、古代エジプトでも最大規模の神殿。最大の神殿はアメン大神殿で、それ以外の神殿はほとんど残存しておらず、カルナック神殿というと一般的にはアメン大神殿を示します。
実はアメン大神殿の外側には、アテン神殿が存在していて、巨像や建造物があったとされますが、彼の死後はアテン神は破壊され、建築素材として再利用されたため、現在は遺構すらほとんど残っていません。現在も残るアメン大神殿の第2塔門や第9塔門、第10塔門などは、アテン神殿の素材を再利用されたとされています。
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世界遺産マニアの結論と感想
アメンホテプ4世はアクエンアテンと名を変え、アメン神官たちから王権を取り戻そうとした革新的なファラオであったたものの、その野望は儚くも消え去り、彼の築いた都や建築物も現在にほとんど残されていません。世界史的には有名なのに少し寂しいところですね。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。