アレクサンドロス大王の東方遠征とは?どこまで支配したかを含めて世界遺産マニアが解説

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アレクサンドロス大王の東方遠征(紀元前334年~紀元前323年)は、古代史上最も壮大な軍事遠征の一つであり、彼の名を不滅のものにしました。大王はペルシア帝国を滅ぼし、その後アジアの広大な領域を征服。これにより、ギリシャと東方の文化が融合した「ヘレニズム時代」の基盤を築きました。

今回はアレクサンドロス大王の東方遠征を世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、アレクサンドロス大王の東方遠征について具体的に理解できること間違いなし!

目次

アレクサンドロス大王の東方遠征の目的は?

画像素材:shutterstock

アレクサンドロスの父、フィリッポス2世(ピリッポス2世、紀元前382年〜紀元前336年)はギリシャ北部の小さな国マケドニアの王であり、彼は軍事を強化し、ギリシャを統一しました。そして、次は中東を含め大帝国を築いたアケメネス朝ペルシアへの遠征を計画。しかし、彼は暗殺されたため、その野望は絶たれました。

20歳で即位したアレクサンドロスはこの計画を引き継ぎ、ペルシアを征服するという目標を掲げ、ギリシャを再統一すると紀元前335年にペルシャ遠征を開始。

遠征の過程

小アジア(現在のトルコ)

画像素材:Wikimedeia Commmons

大王はエーゲ海を挟んで小アジア(現在のトルコ)へ。マケドニア軍3万8000の兵士を引き連れ、グラニコス川の戦い(紀元前334年)にてペルシアの小アジアの防衛軍を撃破。この勝利により、小アジア全域を征服する足がかりを作りました。

そして、紀元前333年に現在のトルコ南部にあるイッソスにて、ペルシアの王ダレイオス3世と対峙します。ダレイオス3世は10万という大軍を率いて対抗しましたが、アレクサンドロスは天才的な戦術によって勝利を収めました。ダレイオスは逃亡し、その妻子や母親は捕虜となってしまいます。大王は和睦の申し出を受けるものの、これを拒否し、さらに帝国内に侵攻。

シリア・エジプト

アメン神殿/シワ・オアシス(考古学地域)
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アレキサンドロスは、現在のシリアへと侵入し、世界遺産に登録されているティルスやガザなどが反抗したため、この地域を征服すると、今度はエジプトに進出。

エジプトではペルシア支配に対する不満が高まっており、ほぼ無血でエジプトを征服し、アレクサンドロスはエジプト人に歓迎され、エジプトのファラオ(王)として即位しました。さらに、西方のシワ・オアシスでは、エジプト神話の太陽神であるアメン神を祀る神殿があり、自らをアメンの子とする神託を受けたことでも有名。その後、海岸沿いに都市を建造し、それが現在の「アレキサンドリア」となったということも知られます。

オリエント

スーサ
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エジプトで休養をしたマケドニア軍は、現在のイラク北部へと侵攻しました。世界遺産に登録されているアルベラ(エルビール)の近くで、ガウガメラの戦い(紀元前331年)が発生。ダレイオス3世が率いるペルシア帝国の主力軍20〜30万と激突。しかし、アレクサンドロスは再びペルシア軍を破り、ダレイオス3世を完全に敗北させました。これによりペルシア帝国は事実上滅亡。ダレイオス3世は部下に暗殺されてしまいます。

その後、アレクサンドロスはアケメネスの中心である、バビロン、スーサ、ペルセポリスなどを次々と占領しました。ちなみに、イラクのバビロン、イランのスーサとペルセポリスはすべて世界遺産に登録。

中央アジア

アフラシヤブの丘/サマルカンド‐文化交差路
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その後、アケメネス朝の支配地であった中央アジアでは反乱が発生したため、マケドニア軍はさらに東方へと侵攻。紀元前329年から紀元前327年まで、バクトリア(現在のアフガニスタン付近)やソグディアナ(現在のウズベキスタン付近)で激しい抵抗に直面しましたが、アレクサンドロスはこれを制圧しました。

これによりアレクサンドロス大王はアケメネス朝の領地をすべて征服。この地域の支配を安定させるため、バクトリアの王女ロクサネと結婚し、これは彼にとっての初めての結婚となります。

パキスタン・インド

タッター
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次はインドへの遠征を開始。アレクサンドロスはパンジャーブ(現在のパキスタン北東部・インド北西部)へと侵攻し、ヒュダスペス川の戦い(紀元前326年)にてパウラヴァ族の王ポロスと戦い、勝利。ポロスの勇敢さを称賛したアレクサンドロスは、彼に領地を与えて統治を任せました。

しかし、インド遠征の途中、兵士たちが疲労し、部下がたちが拒否したため、アレクサンドロスはガンジス川を渡る計画を断念し、スーサへ引き返しました。

遠征の終わりとアレクサンドロス大王の死

バビロン遺跡
画像素材:AdobeStock

紀元前323年にスーサに戻ると、アレクサンドロスはバビロンに戻り、マケドニア軍の将校たちが、ペルシア貴族や王族の女性たちと結婚するという「合同結婚式」を行います。大王はマケドニア人とペルシア人を結びつけることで、広大な帝国を統一し、東西の文化を融合させるという考えもありました。

彼はさらなる遠征(アラビア半島の征服)を計画していましたが、バビロンにて突然の病に侵され、32歳の若さで亡くなりました。

世界遺産マニアの結論と感想

遠征は約10年にも及び、結果として西は東ヨーロッパから東はインドにいたる大帝国を築くことに成功。しかし、東方遠征は、単なる軍事的な征服を越え、文化・経済、そして政治の変革をもたらしました。彼の死後、広大な帝国は後継者問題により分裂し、「ディアドコイ戦争」が勃発するも、彼の思想でもある東西融合の「ヘレニズム文化」はさまざまな面において人類の発展に貢献したのです。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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