登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (3), (6) |
登録年 | 2019年 |
バビロンは、バベルの塔やバビロンの空中庭園があったとされることで有名ですが、実際のバビロンは紀元前3000年にも遡る古い都市で、紀元前6〜7世紀にかけて新バビロニア帝国の首都であった場所。ここはハンムラビ王やネブカドネザル王といった統治者の下で繁栄した、バビロニア地方の創造性が見られるというのが特徴です。
ここではバビロンがなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、バビロンについて詳しくなること間違いなし!
「バビロン」という意味は?
バビロンは、古代のメソポタミアで話されていたアッカド語の「バーブ・イリ(神の門)」から由来すると考えられていて、それがギリシャ語で「バビロン」と呼ばれていたことから現在ではこの名称が広く使用されています。しかし、この「バーブ・イリ」という意味はあくまでも地名で、起源は民間言語という説もあり、はっきりとは分かっていません。
ヘブライ語では「バベル」と呼ばれ、旧約聖書では「バベルの塔」のバベルはこの街を示しています。聖書では「バラル(混乱)」という意味の語源であるとされていました。
バビロン(遺跡)とは?その場所はどこにある?
バビロン第一王朝の誕生によって「バビロニア」の中心地として繁栄
遺跡としてのバビロンは、バグダッドの南約85kmに位置する古代都市。紀元前3000年には既に人がここで住んでいて、メソポタミア文明でも最大の集落の一つでした。ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王が築いたバビロン第一王朝(紀元前1830年〜紀元前1530年)によって、広大な王国が築かれ、メソポタミア南部に広がる領土はバビロンを中心とした「バビロニア」と呼ばれるようになり、宗教において中心地となりました。
その後、栄枯盛衰を繰り返すも、再び新バビロニア帝国(紀元前626年〜紀元前539年)の首都として繁栄し、遺跡からは古代世界で最も影響力のあった帝国の跡が見られるというもの。ここはメソポタミア文明のすべての地域に対し、科学技術や芸術などの面において多大な影響を与えました。
遺跡からは、内壁と外壁という二重の壁に囲まれていて、門や宮殿、ジッグラトという巨大な神殿跡などが点在し、当時の偉大な都市の形跡が見られます。
古代バビロンが滅びた理由は?
しかし、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャ(紀元前550年〜紀元前330年)や紀元前4世紀にマケドニアのアレキサンドロス大王(紀元前356年〜紀元前323年)によって支配されると、徐々に衰退していき、紀元前2世紀のパルティア王国時代(前247年頃?〜224年)は地方都市にまで縮小。後に洪水によって廃墟となり、最終的には放棄されてしまいます。
ギリシャ人のテキストや旧約聖書に記載があったものの、本格的にその存在が確認できるようになったのが19世紀の英国人の発掘が始まってから。しかし、全体の85%はまだ未発掘で、さらなる調査が待たれます。
世界の七不思議の一つ「バビロンの空中庭園」があった?
新バビロニア帝国のネブカドネザル2世(紀元前604-561年)は、妻アミュティスのために、巨大な宮殿の横に「空中庭園」と呼ばれる壮大な建造物を作ったという伝説も残っています。しかし、バビロンの空中庭園は、古代世界の七不思議ではあるものの、位置がはっきりと分かっていない上に、その存在を証明する考古学上の証拠もなく、実際に存在したかは謎。
そもそも日本語としては「空中庭園」と表現されますが、英語だと「Hanging Gardens of Babylon」なので「吊り庭園」と約されるものの、これはギリシャ語やラテン語によって誤訳だったとされています。神話などによると、階段のように築かれた庭園で、別に空中に浮いているわけではないですし、そもそもそんな技術は現在の世界でも存在しないですしね…(だからこその「七不思議」なのでしょうけど)。
バビロン(遺跡)はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
バビロンが評価されたのが、以下の点。
登録基準(iii)
バビロンの都市としての歴史は、紀元前3000年にさかのぼり、ハンムラビ王やネブカドネザル王などの有名な王を輩出し、新バビロニア帝国の首都として、遺跡からは文明の創造性が見られるという点。
登録基準(vi)
バビロンは、誕生から2000年以上に渡って古代における強大な国家であり、ギリシャの歴史家はバビロンの空中庭園を古代世界の七不思議とし、『旧約聖書』においてはバベルの塔の記載があるほどに知名度が高く、それらの伝承の起源がここであるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
バビロンは、バベルの塔やバビロンの空中庭園でも知られ、古代世界においては大きな影響力を与えた都市で、遺跡からはかつて何度も栄枯盛衰を繰り返し発展した都市の跡が残るという点で評価されています。
ちなみに、かつてイラクの大統領であったサダム・フセインはネブカドネザル2世を尊敬していて、遺跡の入口には彼の肖像画とともにネブカドネザル2世の肖像画を置き、「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセイン」と碑文に刻んだほど。さらには、バビロンの遺跡にケーブルカーまで建設しようとしたのですが、2003年のイラク戦争によってこの計画は中止されました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。