聖ペトロは、イエス・キリストの十二使徒の一人であり、初期のキリスト教の布教においては非常に重要な人物でした。使徒の中でもリーダーであるとされ、伝承では初代ローマ教皇とされる人物。そんな聖ヨハネとはどういった人物だったのでしょうか?
今回は聖ペトロ(ペテロ)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、聖ペトロについて具体的に理解できること間違いなし!
※こちらではあくまでも世界遺産を知る上で「聖ペテロ」を解説したものであり、聖書における「聖ペテロ」について解説したものでありません。
聖ペトロ(ペテロ)とはどんな人物?聖ペトロ十字とは?
資料は少ないものの、初期の教団のリーダーであった人物

彼については歴史的資料は少なく、ほとんどが新約聖書によるもの。以下では新約聖書や伝承などをもとに彼の足跡を辿ったもの。
実は彼の本名は「シモン」。シモンはイエスから「ケファ(岩)」と呼ばれたために「あだ名」ではあったのですが、ギリシャ語のやラテン語の「ペトロ」と意訳され、一般的にはあだ名で呼ばれます。聖ペトロはもともとはガリラヤ湖で漁師をしていましたが、彼の弟のアンデレとともにイエスの弟子となります。イエスの十二使徒の中でもリーダー的存在となったものの、イエスの受難の前夜、彼は「たとえ死んでもイエスを裏切らない」と誓いましたが、イエスが逮捕された後、取り調べの際、夜明け前に3回「イエスを知らない」と嘘を付いてしまいます。
逆十字で磔刑されるも、初代ローマ教皇に



イエスが磔刑となり、復活した後、ペトロは改めて「私の羊を飼いなさい」という言葉を受け、『使徒言行録』ではエルサレムにて、使徒のリーダーとして活躍するも後に彼はエルサレムを離れ、各地で布教を続けたとされています。
聖書にはこれ以上の記述はないのですが、外典である『ペトロ行伝』では、彼はローマにて宣教していたものの、皇帝のネロ(37〜68年)によって逆十字にされて64〜67年ころに殉教したとされています。それもあり、現在のバチカンの丘がペトロの墓と伝えられ、その伝承を受け、後世にはサン・ピエトロ大聖堂(聖ペトロの大聖堂)が建造されました。
ちなみに逆十字は「聖ペトロ十字」と呼ばれ、ペトロ自身がイエスと同じ状況で処刑されるのに値しないと考えたため、このように処刑するように望んだという伝承があります。
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アッピア街道(街道の女王)/イタリア



アッピア街道は、古代ローマ人にとって「街道の女王」と呼ばれるほどに偉大なる道路でもあります。ここは紀元前312年に首都であったローマ市の中心フォロ・ロマーノからイタリア中部のカープア(古代都市)までを結ぶと、領土が拡大していくうちに延伸していき、合計で約540kmにもなりました。
伝承によると、迫害が激しくなったローマから逃れようとペトロが街道を歩いていると、イエスが反対側から歩いてきたため、「主よ、あなたはどこへ行かれるのですか?」と訪ねたというエピソードで有名。イエスが再び磔刑になるためにローマへと向かうということを知り、彼は殉教を覚悟したとされています。
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バチカン市国



イタリアの首都ローマ市内にある独立国家・バチカン市国。ローマ教皇を元首とした面積0.44平方kmの小さな国家で、人口は約800人ほど。
バチカンの丘は、聖ペトロの墓があったとされる場所。もともとはネクロポリスとしてローマ市内の埋葬地として利用されていた場所ですが、4世紀にローマ帝国でキリスト教が国教となると、4世紀に皇帝コンスタンティヌス1世によってバシリカ式の教会堂が建築されました。15世紀に当時の教皇であったニコラウス5世によって、大きな聖堂へと改築。
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世界遺産マニアの結論と感想
聖ペトロは、イエスの十二使徒の中でもリーダーであり、キリスト教の基盤を築いた人物。彼は信仰が強かったものの、同時に弱さを持っていたとされ、聖書では多くの信者にとって模範的な存在となりました。バチカンのサン・ピエトロ大聖堂やローマ教皇にも深く関わる人物であり、キリスト教の中でも非常に重要な存在でもあります。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。