広開土王(374〜413年)は、高句麗の第19代の王あり、世界遺産の好太王碑(広開土王碑)にその功績が称えられた人物。そこには当時の朝鮮半島の歴史だけではなく、倭(日本)にも言及されていることから貴重な資料となっています。広開土王とはどういった人物だったのでしょうか?
今回は広開土王(好太王)がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、広開土王について具体的に理解できること間違いなし!
広開土王とはどんな人物?ドラマでも有名

高句麗は、1世紀から7世紀にかけて朝鮮半島北部と中国東北部(現在の満州地域)に存在した古代国家です。朝鮮の三国時代の一角を担い、東アジアでは中国を除いて広大な領土を持っていた強国としても有名。
広開土王は、先代の故国壌王の息子として374年に生まれ、父の死とともに391年に若くして即位します。本名は高談徳(だんとく、タムドク)。南方では三国の一つである百済を攻撃し、新羅(しらぎ)を支援して影響下に置きました。そして、北方の遊牧民族を撃退して領土を広げ、高句麗の最盛期を迎える土台を築きた上げたのです。彼は名君として知られ、413年に死去した後、息子である長寿王(394〜491年)によって碑文が築かれて、その功績が称えられました。
ちなみに、ペ・ヨンジュン主演の韓国ドラマ『太王四神記(たいおうしじんき)』でも主人公タムドクとして広開土王が登場しますが、ファンタジーの要素もあり、実際の広開土王のイメージとはまた異なるものでもあります。
好太王碑(広開土王碑)とは?



中国東北部にある吉林省集安市には、高句麗時代の史跡である「丸都山城(がんとじょう)」があります。そこに残る好太王碑(広開土王碑)には、当時の東アジアの政治情勢がよく分かる内容が刻まれていました。
碑文によると、5世紀初頭、日本列島の勢力(倭)が南方の百済を介して朝鮮半島に進出していましたが、広開土王は倭軍を半島から撃退し、百済の隣国・新羅を援助したとのこと。とはいえ、このあたりの詳細は中国の文献にもないことから、どういった人物と戦ったかは不明ではあるものの、歴史的に重要な資料となっています。
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好太王碑(広開土王碑)/中国



中国の吉林省集安市には、高句麗前期の首都「丸都山城」であったとされる場所があります。丸都山城の近くには、高句麗の王と貴族の墳墓があり、特に王の墳墓は階段状のピラミッドとなっているのが特徴。
丸都山城近くには、「将軍塚」という大型の積石塚があり、これらは長寿王の墓と比定されていて、近くには彼の父である広開土王の石碑があります。
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世界遺産マニアの結論と感想
広開土王は、高句麗を最盛期へと導いた名君であり、その影響は朝鮮半島だけでなく、中国や日本にも及んでいます。特に倭との戦いや朝鮮半島の覇権争いの記録が残されていて、文献が少ない日本の古代史を明らかにするという点では非常に重要な人物でもあるでしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。