フランシスコ・ピサロ(1470年頃〜1541年)は、スペインの探検家であり、征服者(コンキスタドール)。彼は広大なインカ帝国(現在のペルー一帯)を征服し、スペイン領としたことで知られます。フランシスコ・ピサロとはどういった人物だったのでしょうか?
今回はフランシスコ・ピサロがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フランシスコ・ピサロについて具体的に理解できること間違いなし!
フランシスコ・ピサロとはどんな人物?
新大陸の探検とインカ帝国の探検

スペイン南西部のトルヒーリョで生まれ、父親は軍人だったものの、母は低い身分の女性であり、ピサロは私生児だったため、正式な教育を受けていなかったとされています。1502年頃、ピサロはスペインを離れ、エスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)へと向かいました。当時の新大陸はに多くのスペイン人が富を求め訪れる場所でもあったのです。
1510年にスペインの探検家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアと共にパナマ遠征に参加し、1513年にバルボアと共にパナマ地峡を超え、太平洋を発見しました。
1520年代に二度に渡り、ピサロはペルー沿岸を探検し、インカ帝国(1438〜1533年)の存在を確認。彼はインカ帝国が莫大な金銀を持つことを知り、1528年にスペインに戻り、当時の国王カルロス1世から支配の許可を得ました。ピサロは1531年にパナマを出発し、1532年にインカ帝国の領内に到達しました。彼の軍勢はわずかに168人の兵士と27頭の馬という小規模なものでしたが、鉄砲や火薬、騎兵といったインカ帝国にはない最先端の武器を持っていたというのが最大の強み。
インカ帝国の崩壊…そして、ミイラへ



1532年にピサロは現在のペルー北部のカハマルカで皇帝アタワルパを捕らえると、アタワルパはピサロに大量の貴金属を渡したものの、ピサロは約束を破り、彼を処刑しました。1533年にピサロはインカ帝国の首都クスコを占領。当時のインカ帝国は、皇位継承で分裂が起きていたということもあり、1536年に反乱を起こした、最期の皇帝マンコ・インカ・ユパンキを撃退し、インカ帝国は事実上滅亡。1535年には現在の首都であるリマを建設し、本拠地にしました。
しかし、インカ帝国を征服後、ピサロは権力を握りましたが、かつての仲間ディエゴ・デ・アルマグロと対立し、1538年にピサロはアルマグロを処刑するも、1541年にアルマグロの遺児によってリマで暗殺。彼は埋葬されることがなかったため、今でもリマでミイラとして墓に入れられています。
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アルマス広場(クスコ)/ペルー



ペルー東部・アンデス山脈にある大都市クスコは、かつてインカ帝国の首都として栄えました。旧市街にあるアルマス広場は、インカ帝国時代から使用されていた広場。
ピサロがここでクスコ征服の宣言をしたり、18世紀に反乱を指導したホセ・ガブリエル・コンドルカンキの処刑が行われたりと、歴史的なイベントが行われる場所でもありました。現在も街の中心地で、周囲は商店が集まっています。
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古都スクレ/ボリビア



スクレはボリビア中央部のチュキサカ県に位置し、標高は2810m。1538年にピサロの指示によって設立。当時はスクレという名前ではなく、シウダッド・デ・ラプラタ・デ・ラヌエバ・トレド(新トレドの銀の街)という名前で呼ばれていました。
街には保存状態の良い宗教建築物が多く、先住民の伝統とスペインの建築様式が融合しています。
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大聖堂(カテドラル)/ペルー



リマはペルーの西海岸沿いにあり、リマリック川南岸にある都市。リマはスペインの首都マドリードをモデルにして、街の中心であるアルマス広場を中心に碁盤の目のような区画で設計され、マヨール広場に面した大聖堂は、かつてのインカ時代の宮殿跡に建造されたもの。ここはペルー最古の大聖堂として有名。
1535年の起工した時はピサロ自ら礎石を据ましたが、その後地震などもあり、工事が中断し、完成したのは結局17世紀後半。1891年からはピサロの遺体を入れた石棺が置かれています。
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世界遺産マニアの結論と感想
フランシスコ・ピサロは、少数の部隊インカ帝国を征服し、スペインの南米支配を確立したという点では優れた征服者と言えるでしょう。しかし、その過程ではインカ帝国の人々を虐殺し、文化破壊を行ったことで、現在でもペルーの人々にとっては複雑な感情を抱かれています。彼の死後、南米はペルー副王領となり、スペインに大量の富をもたらすことになりました。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。