ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)とはどんな人物?ドラキュラのモデルを世界遺産マニアが解説

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ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世、1431〜1476年)は、15世紀のワラキア公国(ルーマニア南部)の君主であり、残忍な処刑方法を行った人物。そして、関連性は薄いものの、「ドラキュラ」のルーツとなったことで知られます。ヴラド・ツェペシュとはどういった人物だったのでしょうか?

今回はヴラド・ツェペシュがどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ヴラド・ツェペシュについて具体的に理解できること間違いなし!

目次

ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)とはどんな人物?

ドラクル公の息子

シギショアラ歴史地区
画像素材:shutterstock

ヴラドは1431年に現在のルーマニア・トランシルヴァニア地方のシギショアラで生まれました。彼の父はヴラド2世(ヴラド・ドラクル)で、神聖ローマ皇帝ジギスムントが創設したドラゴン騎士団の一員でした。

当時のワラキアはオスマン帝国に従属していて、スルタンのムラト2世(1404〜1451年)は、ワラキア公ヴラド2世から彼の息子たち(ヴラド・ツェペシュと弟のラドゥ)を人質としました。その後、1448年にオスマン帝国の支援を受け、ワラキア公として即位するものの、すぐに公位を奪われて亡命。

オスマン帝国との戦いと串刺し公(ツェペシュ)と呼ばれた理由

ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)の像
画像素材:shutterstock

1458年から再びワラキア公となるものの、彼の統治下では政敵や犯罪者を串刺しにして処刑することが多く、串刺しの刑は最も卑しい刑であり、当時は珍しくはなかったのですが、彼は貴族にすらそれを行う異常さを持っていました。

オスマン帝国・スルタンのメフメト2世(1432〜1481年)がワラキアに対し従属を求めたところ、ヴラドは反抗し、使者を串刺し刑にしました。それに怒り、メフメト2世は報復としてワラキアに侵攻。ヴラドは「焦土作戦」を行って農地を焼き払い、伝説によれば、ヴラドは2万人ものオスマン兵を串刺しにし、それを見たメフメト2世は恐怖して撤退したとされるほど。

しかし、ヴラドはオスマン帝国との戦いでその地位が追われるようになると、ハンガリー王マーチャーシュ1世(1443〜1490年)のもとに逃れました。しかし、彼の冷酷さを恐れたマーチャーシュ1世はヴラドを幽閉。1476年にヴラドは再びワラキア公に返り咲くものの、同年の戦闘で戦死しました。彼の首は切り取られ、オスマン帝国に送られ、胴体はブカレスト郊外のスナゴヴの修道院へと葬られたとされます。

なぜ『吸血鬼ドラキュラ』のモデルになった?

ブラン城
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そもそも「ドラキュラ(Dracula)」とは「ドラゴンの息子」という意味。父ヴラド2世は「ドラクル(Dracul)」という称号が与えられ、これは「ドラゴン(または悪魔)」を意味し、これがドラキュラの由来とはなっています。

しかし、吸血鬼はバルカン半島には伝説としてあるものの、ルーマニアには吸血鬼などの伝説はなく、そのイメージはアイルランドの作家ブラム・ストーカーによる1897年に出版された小説『吸血鬼ドラキュラ』によるもの。作中ではドラキュラ伯爵が住むドラキュラ城はトランシルヴァニアにあるとされますが、ストーカーはルーマニアを訪れたという記録もなく、ドラキュラの性格や行動もヴラド3世とはほぼ関係がありません。

つまり、名前以外はまったく関連性はなく、ストーカー自身は語ることはなかったものの、ドラキュラは「悪魔の息子」という意味もあるので、なんとなく「イメージにぴったりだった名前」だったから採用…と考えられています。

ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)にまつわる世界遺産はこちら!

ヴラド・ドラクルの家(ヴラド3世の生家)/ルーマニア

ヴラド・ドラクルの家(ヴラド3世の生家)/シギショアラ歴史地区
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シギショアラはルーマニア中央部に位置する町で、トランシルヴァニア地方としては南東に位置します。町はトランシルヴァニア・ザクセン人によって12世紀に標高425mの丘の上に築かれ、14世紀には見張り塔と城塞が建造、この頃に要塞都市としての機能が完成しました。

町には1431〜1435年にワラキア(ルーマニア南部)公だったヴラド2世が幽閉されていた場所が残されています。ここでヴラド3世は生まれました。ちなみに、現在はレストランになっており、店名も「カーサ・ヴラド・ドラクル(ヴラド・ドラクルの家)」。

詳細はこちら↓

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世界遺産マニアの結論と感想

現在では、ヴラド・ツェペシュ=ドラキュラのモデルというイメージもあり、さらには「串刺し公」と名付けられるほどに恐ろしいイメージを持つ人物です。しかし、彼自身は残虐行為を繰り返し、恐怖政治を行ったのは事実ですが、小国ながらもオスマン帝国と戦ったというのも事実のため、キリスト教国では「英雄」とみなすことも。実際に彼がオスマン帝国との戦いで勝利をすることもあったため、危険分子としてあえてヴラドの悪行を誇張したという見方もできるため、光と闇の側面を持つ興味深い人物ではありますね。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1200以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定マイスター認定済。

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