ピョートル1世(1672〜1725年)は、ロシア帝国のツァーリ(皇帝)であり、「ピョートル大帝」としても知られています。彼はサンクトペテルブルクを建都したことでも有名で、ロシアを近代化し、西欧化を進めました。ピョートル1世とはどういった人物だったのでしょうか?
今回はピョートル1世がどんな人物だったかを世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、ピョートル1世について具体的に理解できること間違いなし!
ピョートル1世とはどんな人物?
生誕と大使節団

ピョートル1世は、ロシア・ロマノフ朝(1613〜1917年)のツァーリであるアレクセイ・ミハイロヴィチの息子として生まれました。しかし、父アレクセイが1676年に亡くなると、異母兄フョードル3世が即位。フョードル3世が1682年に死去し、ピョートルと異母兄イワン5世が共同統治者になるも1696年にイワン5世が死去し、単独のツァーリになりました。
彼は1697年に「大使節団」という使節団を率いて、西欧諸国を訪問。オランダでは造船技術を学び、イギリスでは海軍などを見学。最新の科学技術や軍事制度を吸収し、彼はロシアをヨーロッパの強国にするため、大規模な改革を実施しました。例えば、伝統的なロシアの長い髭や衣服を禁止し、西欧風の服装にしたり、貴族女性に対し、社交の場に出ることを奨励したり、貴族に役職に就くことを義務化し、能力主義を導入。
大北方戦争とサンクトペテルブルクの建設



1699年からロシアはスウェーデン(当時のヨーロッパ最強国の一つ)と戦い、バルト海の覇権を争いました。最初は敗北したものの、軍を再編し、1709年のポルタヴァの戦いで大勝し、戦局を逆転。1703年には、フィンランド湾沿いの湿地帯に新都市を建設しました。1712年、正式に首都をモスクワからサンクトペテルブルクに遷都。サンクトペテルブルクでは、ヨーロッパ風の都市設計を行い、「ロシアの窓」として商業の中心地となりました。
1721年にロシアは勝利し、バルト海沿岸を獲得。 これにより、ロシアは「海洋国家」となり、西欧との貿易が活発化しました。しかし、晩年は健康が悪化し、1725年に52歳で死去。その後、妻のエカチェリーナ1世が即位し、ロマノフ朝は断続的な政争を繰り広げるも存続していきます。
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ペトロパヴロフスク要塞/ロシア



サンクトペテルブルクは、レニングラード州の州都でネヴァ川の河口に位置するロシア第2の人口を誇る都市。もともとは湿地帯のため、何万人もの戦争捕虜を使い、運河や水路を建造しました。フランス人建築家であったアレクサンダー・ルブロンが都市計画を担当し、18世紀始めには周囲の風景と調和するように教会、修道院などが並ぶ大都市が完成。
ペトロパヴロフスク要塞は、1703年にピョートル1世によって建造された要塞で、サンクトペテルブルク発祥の地。星形要塞になっていて、中央にある「首座使徒ペトル・パウェル大聖堂」にピョートル1世が眠っています。そして、歴代皇帝の埋葬地となりました。
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世界遺産マニアの結論と感想
ピョートル1世は、ロシアの軍事力・経済力を強化し、ヨーロッパの列強の一角にしたことから、ロシアを「近代国家」へと導いたツァーリであり、サンクトペテルブルクの建設や海軍の創設など、現代ロシアの基礎を築きました。しかし、急激な改革によって、ロシアの伝統を破壊されたために「圧政者」であるという見方も。とはいえ、彼によってロシアは大国として現在も続いているので、その後のロシアは大いに変わったというのは事実でしょう。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。