島根県の世界遺産「銀山柵内(石見銀山)」とは?世界遺産マニアが解説

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登録区分文化遺産
登録基準(2), (3), (5)
登録年2007年

銀山柵内(さくのうち)は「石見銀山遺跡とその文化的景観」の構成遺産の一つ。ここは銀鉱山の跡地であり、石見銀山の中心地でもあったのですが、銀山柵内はなぜ世界遺産に登録されているのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!

ここでは銀山柵内がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、銀山柵内について詳しくなること間違いなし!

目次

銀山柵内とは?

銀山柵内(石見銀山)
画像素材:shutterstock

石見銀山の東側の仙ノ山には、銀の含有率の高い銀床があり、これは博多の豪商の神屋寿禎(かみやじゅてい)によって16世紀に初めて露頭彫りが行われていたという遺構であると考えられています。ある意味、銀山のルーツ的存在。

柵内は、一般的な銀鉱山のイメージであるエリアで、ここでは鉄鉱石の採掘から精錬まで、銀生産の一連の工程が行われました。龍源寺間歩や大久保間歩などを代表に600ほどの坑道が確認されていて、特に「龍源寺間歩」は江戸時代中期に建造され、良質の鉄鉱石が掘られた坑道でもあります。

他にも銀山の周囲にある「山吹城」は、銀山と集落、銀山から港への道を一望できる位置にあるため、16〜17世紀まで戦国大名によって利用されてきました。「佐毘売山神社(さひめやまじんじゃ」は、1436年に創建と歴史がある神社で、によって導入された灰吹法(鉛を使って銀を回収する冶金方)が初めて行われたとされています。

銀山柵内はどんな理由で世界遺産に登録されているの?

銀山柵内(石見銀山)
画像素材:shutterstock

銀山柵内が評価されたのが、以下の点。

登録基準(ii)
16世紀〜17世紀初頭の大航海時代に、石見銀山における銀の大量生産によって、日本と東アジア、ヨーロッパの国々との交易から文化的交流が生まれたという点。

登録基準(iii)
日本における金属の採掘と生産の技術革新は、採掘から精錬までの一連の労働集約型経営による運営形態の進化がもたらされました。江戸時代の日本は鎖国していたために、政治と経済が孤立していた中、ヨーロッパの産業革命によって開発された技術の導入が防がれ、やがて銀鉱山が枯渇すると休山。よってここは19世紀後半まで伝統的建築物が残り、保存状態も良好であるということ。

登録基準(iv)
石見銀山には、保存状態が良い鉱山、製錬所、輸送路、港湾施設の遺構が森の中に多く残り、銀の生産に関連した集落も含まれ、歴史的な土地利用の証拠が見られるという点。

世界遺産マニアの結論と感想

銀山柵内は、石見銀山の中心部だけあって、坑道からは当時の金属の採掘から生産までの高い技術が見られ、その伝統的な技術が今でも見られるという点で評価されています。

ちなみに、「大久保間歩」は、江戸時代から明治時代にかけて造られた坑道で、代官であった大久保長安が槍を持ったまま入ったとされていますが、あまりにも広すぎるためか、冬には多くのコウモリが越冬するため見学ができないのです。

※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。

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この記事を書いた人

世界遺産一筋20年以上!遺跡を求めて世界を縦横無尽で駆け抜ける、生粋の世界遺産マニアです。そんな「世界遺産マニア」が運営するこちらのサイトは1100以上もある遺産の徹底紹介からおもしろネタまで語り尽くすサイト。世界遺産検定一級取得済。

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