登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (4) |
登録年 | 1993年 |
フエの王宮は「フエの建造物群」の構成資産の一つ。ここは阮朝(1802〜1945年)時代の王宮であった場所で、ほとんどが再建されたものですが、各時代の遺構は当時の繁栄が今でも見られるもの。ところで、フエの王宮はなぜ世界遺産なのでしょうか?
ここではフエの王宮がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、フエの王宮について詳しくなること間違いなし!
フエの王宮とは?
王宮は、フエの旧市街の南側に位置し、城壁で囲まれています。ここは1802〜1945年まで王宮として使用された宮殿。南北604m、東西620mというほぼ正方形の広大な敷地内に多くの建造物が並んでいます。中国・北京の紫禁城をモデルにしていて、その広さはも紫禁城の3/4ほどにして造られました。1968年のベトナム戦争までにほとんどが破壊されたものの、一部だけ現在でも残っています。
午門
正面にある午門と呼ばれる正門は「午」は南の方位を示していて、正午になると太陽が上に登るように設計された門。ここはもともと見張り台だった建造物を1833年に2代の明命帝(ミンマン帝、1791〜1841年)が改築して建造しました。高さは17m、幅は58となっていて、2階は5つの望楼があることから「五鳳楼」と呼ばれ、皇帝が民の前に姿を表す場所としても利用されたもの。
大和殿
敷地の中央にあり、王が政務を行っていた場所で、皇帝の即位式などが行われていました。高さ11.8mと皇帝のシンボルである龍が多く見られる壮麗な建築物でしたが、ベトナム戦争時の1968年に破壊されたため、現在の建造物は1970年に再建。ここには皇帝が座る金箔のイスが今でも置かれています。
紫禁城
王宮の北側に位置する皇帝の政務とプライベートの場として、1804年に建造されたもの。しかし、1947年に戦乱により破壊され、現在は回廊のみが残り、ほとんどが美しい庭園となっています。最北部には12代の啓定帝(カイディン帝、1885〜1925年)が建造したバロック様式の建中樓がかつてありましたが、現在は再建されたもの。
世廟(顕臨閣)
王宮の南西に位置する歴代の皇帝と皇后を祀った廟。ここは1821年に建造され、10代の皇帝の位牌が置かれた祭壇が置かれています。比較的保存状態が良く、修復はされているものの、当時の様子を今でも残している数少ない場所。
長生殿と延寿宮
長生殿は王宮の北西に位置する皇太后の宮殿。ここは1803年に初代嘉隆帝(ザーロン帝、1762〜1820年)が母のために築いた宮殿ですが、戦争によって破壊されてしまい、現在はカフェとなっています。隣の延寿宮も皇太后が暮らした場所で、現在残っている「静明楼」は皇皇太后のための医院であり、フランス・コロニアル様式の建造物。
太平樓
王宮の北東にある、3代の紹治帝(ティエウチ帝、1807〜1847年)によって築かれた建造物をベースに、12代の啓定帝によって20世紀初頭に建造されたもの。ここも21世紀になって再建されたものではあり、皇帝の書斎のような役割があったと伝えられています。
フエの王宮はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
フエの王宮が評価されたのが、以下の点。
登録基準(iv)
フエの王宮や郊外の建造物は、アジアの封建社会で見られる首都の優れた例であるということ。
世界遺産マニアの結論と感想
フエの王宮は、皇帝の住まいであっただけり、19〜20世紀にかけて美しい建造物が加えられていき、これらはアジアの封建王朝の権力が見られるという点で評価されています。
ちなみに、王宮は1946年の第一次インドシナ戦争で約8割が焼失したというほどに破壊されてしまい、世界遺産に登録にあたっても、ほとんどが再建されたものであったため、建物の価値というよりは、ベトナムの権力者の文化を象徴する文化遺産として認められたものです。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。