登録区分(暫定リストに記載) | 文化遺産 |
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登録基準(暫定リストに記載) | (2),(3),(4),(5),(6) |
申請年(暫定リストに記載) | 2007年 |
石舞台古墳は「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成遺産の一つ。まるで石の舞台のように見えるのが特徴。巨大な横穴式石室古墳で、内部はむき出しになっているものの、日本でも最大規模の石室を持ちます。ところで、石舞台古墳はなぜ世界遺産候補なのでしょうか?
ここでは石舞台古墳がなぜ世界遺産候補なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、石舞台古墳について詳しくなること間違なし!
石舞台古墳とは?誰のお墓なの?
なぜ古墳はむき出しなの?その謎

明日香村にある巨大な横穴式石室古墳で、読み方は「いしぶたいこふん」。石室の天井に置かれた二つの巨石が「舞台」のように見えるというもの。ここは古墳ではありますが、外を覆っていた封土が剥がされていて、花崗岩で作られた石組みがむき出しになっています。
建造は7世紀初期と考えられていて、玄室は長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7mと国内最大級。それに繋がる羨道(えんどう、玄室と外部を結ぶ通路部分)の長さは約2.5m。もともとは方墳だったと考えられていますが、長い年月の間に周囲の土が流れ落ち、石室が露出した状態になったとされています。その理由は、自然の侵食なのか、人為的なものなのかははっきりしていません。
埋葬者は蘇我馬子?なぜ墓は暴かれたの?



石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれていることから、これは飛鳥時代の貴族であり、大臣にもなった蘇我馬子(そがのうまこ、不詳〜626年)の墓というのが有力。『日本書紀』にも626年に大臣を桃源墓(現在の石舞台のある場所)に葬ったという記述があり、これも蘇我馬子であることを示しているとされています。しかし、敷地内には6世紀後半に築かれた部分が見つかっていて、建造年から馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)という説も。
封土が剥がされた理由もはっきりとはしていませんが、17世紀には既に「石太屋(いしふとや)」と呼ばれていたので、江戸時代には既に現在と同じような状況だった様子。そして、石室では埋葬品はほとんど失われていて、これは盗掘にあったと判断されています。かなり古い時代から暴かれていたと考えられていて、一説には大化の改新の際に、当時恨みを抱いていた人々による蘇我氏に対する懲罰だったとも。
「石舞台」にまつわる伝説



かつて石舞台は「石蓋(いしぶた)」と呼ばれていて、狐が女に化けて古墳の上で踊ったことから「石舞台」という伝説があるものの、これはあくまでも近代の説。
もともとは、これは「桃原墓」と呼ばれていて、江戸時代に「石太屋」と呼ばれたものが、現在の「石舞台」へと繋がっていたという説もあり、実際はむき出しになった姿から「石」にまつわる呼ばれ方になったのでしょう。
石舞台古墳はどんな理由で世界遺産に登録される予定なの?



日本政府が提出したの暫定リストに記載されている登録基準としては、以下の点。
※これらは2007年に暫定リストに記載された、日本における基準です。
登録基準(ii)
文化の交流を示すもの
登録基準(iii)
現存or消滅した文明の証拠
登録基準(iv)
人類の歴史を象徴する建築物の代表的な段階や景観の見本
登録基準(v)
伝統的集落や人類と環境の交流の見本
登録基準(vi)
人類史上に残る出来事や現存する伝統、思想、信仰、芸術
世界遺産マニアの結論と感想
石舞台古墳はまだまだ謎に包まれていますが、当時の権力者であった蘇我馬子の墓という説が有力。石室は日本最大級の規模を誇り、その構造や石材の配置からも当時の技術力の高さが伺えるという点で貴重なものです。
ちなみに、古墳の羨道や外部の堤跡からは宋銭や寛永通宝が発見されていることから、やはり、古い時代からここは既にむき出しだったと現在では考えられています。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。