登録区分 | 文化遺産 |
登録基準 | (2), (3), (6) |
登録年 | 2000年 |
首里城跡は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の構成資産の一つ。首里城は琉球王朝の居城として、政治と文化の中心地でもありました。ところで、首里城跡はなぜ世界遺産なのでしょうか?意外と知ってそうで知らない!
ここでは首里城跡がなぜ世界遺産なのか、世界遺産マニアが分かりやすく解説。これを読めば、首里城跡について詳しくなること間違いなし!
首里城跡とは?その歴史について解説
沖縄県の県庁所在地の北東部にある「首里」はかつての琉球王国(1429〜1879年)の王都でありました。首里城は琉球王朝の居城で、那覇市内を見下ろすように丘陵地帯に築かれたもの。創建ははっきりとはしていないものの、14世紀には中山王国(現在の那覇市、浦添市を中心としたエリア)の城として建造され、やがて中山王国が沖縄本島を統一し、琉球王国の首都となると、ここは政治や経済、文化の中心地となりました。
第一尚氏(1406〜1469年)の時代の首里城は完全に破壊され、第二尚氏(1469〜1879年)の時代に再建されるも2度火災に遭い、現在の首里城は1715年に再建されたものをベースにしています。
二重の城壁に囲まれていて、外郭は第二尚氏時代、内郭は第一尚氏に建造され、合計で1080mにもなります。ここは水平に揃えて積む「布積み」や石材を加工する「相方積み」が混在するもの。内郭には9つの門、外郭には4つのアーチ門がありました。
王の住まいの正殿、政務をする南殿に囲まれた御庭(うなー)は何度も破壊と再建を繰り返し、現存していません。正殿の裏側は「御内原(うーちばる)」と呼ばれ、ここは王族や女官たちの住まいとなっていて、現在は発掘が進み、遺構なども発見されています。
首里城は他のグスクと同様に、琉球神道の儀式を行う「御嶽(うたき)」が十箇所もあり、琉球有数の聖域でもあります。城内にある「園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)」も首里城とは別に世界遺産として登録。
現在の正殿は再建中
2019年の火災によって、正殿と北殿、南殿が全焼し、現在は少しずつ再建工事が行われています。予定では正殿は2026年に復元予定で、その後に北殿と南殿も再建される予定ですが、その時期はまだ未定。1958年に再建された守礼門は火事の影響を受けずに残っていて、城壁や門以外で当時の雰囲気が見られる建造物はほぼここだけ。
首里城跡はどんな理由で世界遺産に登録されているの?
首里城跡が評価されたのが、以下の点。
登録基準(ii)
琉球列島は、数世紀に渡って中国、韓国、東南アジア、そして日本との経済や文化的交流の中心地として発展し、それは現存する建造物によって示されているという点。
登録基準(iii)
琉球王国の文化は、その環境において独自に発展し、繁栄したということ。
登録基準(vi)
斎場御嶽など、琉球王国時代から続く聖地は、現在でも住民たちに自然崇拝や先祖崇拝の場として大切にされているという点。
世界遺産マニアの結論と感想
現在の首里城は何度も再建された城ではありますが、遺構からは琉球王国の政治の中心というだけでなく、各地との文化的交流が見られ、城内は信仰の場もあったという点で評価されています。
ちなみに、明治になると琉球王国は沖縄県になると、首里城の一部は学校へと転用されたりしましたが、正殿の背後に「沖縄神社」が築かれ、ここは社殿として利用されたのです。ちなみに、ここでは歴代の琉球の王様が祀られていたのですが、なぜか源氏の源為朝(1139〜1170年)も祀られていました。彼は鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔父にあたる人物で、あまりにも大暴れが過ぎたために都を追放されたのですが、なぜか沖縄にたどり着いて初代琉球国王の舜天(しゅんてん)になったという伝説があるからだとか。
※こちらの内容は、世界遺産マニアの調査によって導き出した考察です。データに関しては媒体によって解釈が異なるので、その点はご了承下さい。